わたしは主を見ました

2020年4月12日 復活祭
(ヨハネによる福音書20:1~18)

皆さん、イースターをおめでとうございます。
毎年している挨拶ですが、私は、この挨拶が大好きです。なぜなら、この復活が私たちの信仰であり、今後、私たちに起こることだからです。ペトロの手紙1章24節には、このように書かれています。

「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。」

永遠に生きるようですが、私たち人には、終わりというものが存在しています。そして、この終わりは、私たちにとって最も大きな恐れであり、絶望です。しかし、信者にとってのこの終わりは、終わりだけとして存在していません。イエス様が死者の中から復活され、この終わりを始まりに変えられたからです。だから私たち信仰の人も、終わりに向かって走って行っていますが、私たちの終わりは、終わりだけとして存在せず、永遠に向かっていくスタートになるのです。これが復活祭の良い知らせであり、私たちが復活祭を祝う理由でしょう。

ところが皮肉なことに、イースターを迎えた今日も、全世界から、悲しいニュースが聞こえてきます。大勢の人がウイルスに感染され、さらにはウイルスによって死ぬ人もいるのです。それで、私たちも、約一ヶ月間、礼拝を中止して、状況を見ています。このような状況で復活の信仰と精神は、私たちに大きな力になると思います。復活が私たちに教えてくれるのは、私たちの肉体が生き返ることだけではありません。絶望の中で希望を見ること。これが復活のメッセージだと思います。復活の信仰が不安の世の中にいる私たちを導いてくれるでしょう。

今日の福音書で登場している人たちも、絶望を経験した人々です。
彼らが従っていた先生は殺され、彼らは、何をすべきか知りませんでした。そうした彼らに、良くないニュースがもう一つ聞こえてきました。イエス様の遺体が消え去ったということでした。このことを最初に確認した人は、マグダラのマリアでした。彼女はこれをペトロとヨハネに知らせ、彼らは、イエス様のお墓からイエス様の遺体が消え去ったということを確認しました。絶望に絶望が加わったでしょう。今日の福音書10節には「それから、この弟子たちは家に帰って行った」と書かれています。彼らのメシアは、彼らの中で死に、彼らは、ますます深い絶望と悲しみに落ち込みました。

このような絶望は、帰って行った弟子たちだけにあったことではありませんでした。
墓の外に立っていたマグダラのマリアも同じでした。死の絶望の前で、人ができることは何もないでしょう。しかし、彼女が二人の弟子たちと違ったのは、家に帰って行かなかったということです。マグダラのマリアは泣いていましたが、墓の外にとどまっていました。イエス様の行方を探すことだけを願っていたからでしょうか。マリアは墓の中を見て、墓の中にいる天使を見ました。しかし、マリアは、彼らが天使であることを知らなかったようです。天使がマリアに、「なぜ泣いているのか」と尋ねると、マリアは、イエス様の遺体がどこに置かれているのか分からないと答えます。そして復活なさったイエス様と出会っても、イエス様の遺体がどこに置かれているのかを尋ねます。

私は、このことが死が私たちに与える影響であり、人の限界だと思います。
弟子たちも、マグダラのマリアも、死の前では無力でした。何度もイエス様から復活の話を聞いて、病人を癒し、死んだ人を生き返らせたところを見ましたが、彼らにとって死は、相変わらずすべての終わりでした。死というものは、人が越えることができるものではなかったということです。ところが、イエス様はこのような死から復活なさいました。眠りについた人たちの初穂になられたのです。死の力が強ければ強いほど、復活はより輝くのです。信仰は私たちを復活の光に導き、私たちは復活の中で、もはや恐れるものは何もないのです。

マグダラのマリアは、復活したイエス様と出会ったのですが、最初には気づきませんでした。死の力が彼女の目を覆っていたからでしょうか。しかし、イエス様がマリアの名前を呼ばれたとき、マリアは、復活なさったイエス様に気づきました。ヨハネによる福音書10章3節に「羊はその声を聞き分ける」と書かれています。イエス様の声がマリアを死の力から離れさせたのです。私は、この御言葉を読みながら、私たちの復活もこのように行われているのではないかと思いました。イエス様がラザロを死の中から呼ばれたように。死んだヤイロの娘をがき上がったように。私たちも最後の日に主の声を聞いて、死の中から復活するでしょう。ルターも自分の死と復活についてこのように言いました。

「キリストが到来して墓の入り口を叩きながら『起きなさい。マルティン博士よ、立ち上がれ』と言われるときまで眠る。そして復活して主と共に永遠に喜ぶ。」

復活なさったイエス様と出会ったマグダラのマリアは、弟子たちのところに行って、「わたしは主を見ました」と言います。この言葉は、復活を経験する前のマリアと対照的です。復活を経験する前のマリアは、絶望の中で、泣いていました。そして死んだイエス様の遺体を探していました。しかし、復活を経験したマリアは、これ以上泣きませんでした。希望の中で、主の復活を弟子たちに伝えました。さらに、イエス様がご自分の復活された最初の姿をマリアに示されましたというのは、その当時には非常に重要な意味を持っていました。イエス様の当時の社会は父系社会、男性中心の社会でした。だから、女性は、低い位置であるしかないので、女性の証言は無視されました。さらに、マグダラのマリアは、七つの悪霊に捕まっていた人であり、一部の伝承によると、売春をしていた女性だったと書かれていました。そんな女性の前に復活されたイエス様が、最初にご自分の姿をお見せになりました。そして、彼女を通して、自分のことを証言するようになさいました。だから「わたしは主を見ました」というマリアの告白は、復活の意味をさらに深くすることだと思います。主の復活は、死の恐れと絶望だけでなく、この世の偏見と差別も変化させることでした。この復活の喜びが皆さんと共にありますように。この不安の世の中に希望を与える復活祭になりますように、主の御名によって祈ります。アーメン。