2020年4月26日㈰ 復活節第3主日
ルカによる福音書24:13~35
アリストテレスは、人間は社会的、または、ポリス的な動物だと言いました。
この意味は、人間は、何かのために「集まる存在」だということです。私たち人々は、昔から群集生活をし、互いに関係を結んできました。ところが、コロナウイルスによって集まることができなくなりました。それで、社会学者たちも、今度のコロナウイルスの状況を心配しています。このような状況が長ければ長いほど、ウイルスが私たち人間社会に及ぼす影響は大きくなるでしょう。だから、私が待っているニュースが一つあります。そのニュースはワクチンの開発です。ワクチンが開発されたとしても、すべての状況が一気に終息することではないでしょう。しかし、ワクチンがあれば、早いうちにすべてが戻って来るはずです。教会も同じでしょう。ワクチンが開発されると、私たちも一緒に集まって、神様を賛美し、礼拝をささげることができます。だから、私はワクチン開発に成功というニュースを待っています。
今日の福音書での弟子たちは、喜ばしいニュースを聞きました。
そのニュースは、イエス様が復活なさったということです。イエス様はご自分の死の前に、復活することを3度も弟子たちに教えてくださいました。その教え通り、イエス様は復活なさり、これを天使たちを通してお墓に来た婦人たちにお知らせになりました。そして婦人たちは、この知らせを弟子たちに伝えました。これは、本当に嬉しい知らせだったでしょう。ところが、弟子たちはこの知らせを信じることができませんでした。ルカによる福音書24章11節には「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」と書かれています。
イエス様の復活は、誰よりも、彼らに最も大事なことだったと思います。
すべてが終わったと思った彼らに、希望になることはイエス様の復活しかなかったからです。では、今、私たちがワクチンの開発を待っているように、彼らも、イエス様の復活を待たなければならなかったのです。ところが、彼らは復活の知らせを聞いても信じられませんでした。復活の知らせをたわごとのように思いました。そして弟子たちは、それぞれ自分の生活の場で戻り始めました。
今日の福音書でのイエス様は、エマオという村へ向かっている二人の弟子に現れました。
エマオはエルサレムから60スタディオン、すなわち11キロくらい離れているところです。なぜ彼らがエマオに向かって行ったのかについては、書かれていません。しかし、イエス様の死は、過越の祭りの中で行われ、一般的に、ユダヤ人たちは、過越の祭り(除酵祭)の期間には、エルサレムやエルサレムの周りに泊まったので、宿泊しに行ったのだという説があります。
★過越祭は一日、以降の7日間は除酵祭★
又は自分の家に帰った可能性もあります。どんな理由でエマオに向かって行ったのかは分かりませんが、確かなことは、この二人の弟子たちは、絶望的な状態だったということです。
イエス様が過越の祭りに合わせて、エルサレムに向かって行かれたとき、この二人の弟子は希望を持ったでしょう。過越の祭りが象徴するのは、解放に対する感謝だったので、彼らも自分たちの解放を期待していたと思います。ローマと結託した祭司長たちと議員たちからの解放、さらにローマからの解放も期待していたでしょう。しかし、彼らの希望とは違って、イエス様は、祭司長たちと議員たちによってローマに渡され、殺されました。彼らの希望はただ一つも実現しなかったのです。期待が大きければ大きいほど、絶望も大きいものです。だから私は、弟子たちが復活の知らせを信じられなかったのだと思います。弟子たちの信仰が弱いからではありません。挫折と絶望、そして死は、いくらでも、人々の信仰を揺るがすことができるのです。本文の二人の弟子もこの揺らいだ信仰を持って、エマオに向かっていたと思います。そして、そのような彼らの前に、復活なさったイエス様が現われられました。
ところが本文16節には、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかったと書かれています。彼らの目が遮られていたという言葉はどんな意味でしょうか。伝統的な解釈によると、復活なさったイエス様の姿は、その前の姿とは違ったのだそうです。だからエマオに向かっていた弟子たちだけでなく、他の弟子たちも、イエス様を見分けることができませんでした。しかし私は、これがイエス様の姿が変化したということだけを、示すことではないと思います。弟子たちの揺らいでいた信仰を示すのだと思います。信仰が揺らぐと、イエス様も見分けることができないのです。イエス様の復活も、私たちの救いも、揺らいでいる信仰の中では、分からなくなってしまうからです。
このような弟子たちのところにイエス様が来られました。
希望を失った彼らのところに、信仰が揺らいでいて復活を信じられない彼らのところに、イエス様が来られました。彼らが弟子としてうまく守ったことは、一つもありませんでした。イエス様の言葉を信じていなかったし、絶望していたし、信仰を守ることも失敗しました。しかし、イエス様は彼らのところに来られました。来られて彼らに神様の言葉を再び教えてくださいました。27節です。
「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された。」
イエス様はご自分が誰なのかをすぐに表されませんでした。
弟子たち自らがすべてのことを悟ることができるように、再び神様の言葉を教えてくださいました。そして、その言葉を終え、弟子たちのためにパンを裂いてお渡しになったとき、弟子たちは、すべてのことを悟ることができました。弟子たちの目が開け、復活なさったイエス様を見分けることができました。彼らの信仰が帰ってきました。希望が見え始めたのです。
先に、私はワクチンの開発を待っていると申し上げました。
私がワクチンの開発を待っているのは、私たちの健康が守られることだけのためではありません。私たちが教会に集まり、一緒に御言葉と聖餐を分けることができるからです。その間、私たちは毎週イエス様の御言葉を聞いて、聖餐を通してパンを分けていました。毎週行っていることなので、習慣のように感じられるかもしれないと思います。しかし、身についたこのようなことが、私たちに復活を悟らせることだったのです。御言葉と聖餐を通して、私たちは毎週復活を経験しており、イエス様と出会っていたのです。だから、私は、私たちが再び集まる日を待っています。
それでも、このように映像で礼拝をささげるようになったことも、ありがたいことだと思います。神様の言葉が聞こえるこの場所を通しても、私たちは希望を見ることができるからです。そして、よりいい明日を期待することができるからです。弟子たちに聞こえた神様の言葉は、弟子たちの目を開いて、イエス様を見分けることができるようにしてくれました。私たちにも同じ恵みがありますように。神様の言葉を通して新たな希望を見られる私たちになりますように、主の御名によって祈ります。アーメン。