トマスの復活祭

2020年5月10日㈰ 復活節第5主日
ヨハネによる福音書20章19~29節


1.イエスキリストの復活は4つの福音書の全部に書かれていますが、各々の福音書には同じ記事とそれから違ったものもあります。


復活のキリストが弟子たちに顕現された出来事を、時系列(時間の経過)で見ると、まず、早朝墓に行った婦人たちに復活の主はお姿を顕されました。その次に、主だった男の弟子たちに顕現されたと思いきやそうではなかったのです。男の弟子たちは婦人たちから知らせを受けたけど信じず、お会いしていない。
2番目に主が出会われたのは、同じ日曜日の朝早く、イエスの死に絶望した弟子たち(一人はクレオパ)がエルサレムから逃げていく彼らに姿を現されました。不思議ですが、キリストが主だった弟子たちに顕現されたのはその後、夕方のことです。ヨハネ福音書、ルカ福音書もそう伝えている。
主は、主の死に信仰を失って去っていく弟子たちを追っていかれる。そんな名もなき弟子たちも多くいたと思われます。生前繰り返し教えておられたように「人の子は、失われた者を探して救うために来た」。つまり、復活の主は、絶望して姿を消した弟子たちを特に気にかけ、ご自分の復活を知らせて救おうとされました。私はこのことに心うたれます。


2.今日のヨハネ福音書は、復活の日の夕方の記事です。


「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて自分たちの家の戸に鍵をかけていた。主は来られて「あなた方に平和があるように」と言われた。
主は「シャローム、あなた方に平安があるように」と言って手と脇腹をお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだと書かれています。復活祭の中心は、主がシャロームと言われたこと、そして弟子たちが復活されたキリストを見て喜んだことです。これが復活祭の中心であります。


3.主の復活の日12弟子の一人トマスは、イエスが来られた時、その場に他の弟子たちと一緒にいなかったという。その後に戻ってきた。


ほかの弟子たちが「私たちは主を見たと言って喜んでいたのに、トマス一人が見なかったのです。「わたしはそんなことは信じない。私は、あの方の手にくぎ跡を見、私の指をくぎ跡に入れなければ、私の手を脇腹に入れてみなければ、決して信じないという。
これは激しい言葉です。「イエスの傷に触れなければ信じない」という言葉は、鈍感、冒涜のことばです。トマスはイエスの傷と、イエスの死と無関係ではないのです。
トマスはイエスを見捨てて逃げた。そしてイエスは深い傷を負われた。イエスの傷はトマスと深くつながっている。それなのに「私の手を差し入れなければ決して信じない」という。トマスよ、イエスの傷に触れたらわかるよ。


4.今日のヨハネ福音書は後半部分が中心です。


復活日の1週間後、この日トマスも一緒にいたところに、主は「あなた方に平和があるように」と言い、トマスに向かって、手と脇腹を差し出し「あなたの指を傷口に入れてみなさい、信じない者とならないで、信じる者になりなさい」。この主のお言葉が今日の中心です。トマスは「わが主よ、わが神よ」と叫んだ。トマスに何が起こったのでしょうか。
トマスは、主キリストのお心に触れたのです。そうやって復活のキリストを見た。見て喜んだ。そこで今日の説教題を「トマスの復活祭」にしました。

作家、遠藤周作の小説「沈黙」の中でキリシタン迫害の時代に司祭ロドリゴが、キリストの顔が刻まれた踏み絵を踏む場面を描きました。司祭ロドリゴは、最も尊い方のお顔を決して踏みたくなかった。けれども、自分が踏まないなら信徒たちの迫害の責苦が続いていく。彼が踏み絵の前に立った時、踏み絵の顔は多くの人に踏まれて、まめつして泣いた顔であったという。踏み絵の顔がロドリゴに「踏んでいい、踏んでいい。踏んだらお前の足も痛かろう。わたしは踏まれるために生まれてきた」。ロドリゴはお顔に足を載せた、痛かったと書いてある。この個所は、今日のヨハネ福音書のトマスと同じだと思いました。
トマスに向かって十字架に死なれ復活されたのキリストは、あなたの指を差し入れていいよ、私はそのために今日トマスのと所にきた。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスは自分の手が、指が痛かった。キリストの傷にふれて自分の罪が痛かっただけでない。イエスの愛が痛かった。トマスは、「わが主よ、わが神よ」。トマスも他の弟子も、そして私も主の愛に触れて、キリストの傷と愛にふれた。「わが主、わが神」と。


5.ところが不思議なことにキリストは最後に、「あなたがたは見たので信じたのか、見ないで信じる者は幸いである」と言われたが、これは何か。


これは、復活のキリストを見ることが出来ないもっと後の時代の、私たちのことを思って言ってくださったお言葉ではないか。「見ないのに信じる者は、もっと幸いだ」という主の、後の時代の人々への思いやりの言葉のように感じます。
主キリストはゴルゴタの丘で十字架にかけられた時、「昼なのにゴルゴタのあたり全地は真っ暗になり、地震があった。神殿の幕が裂けた」など、天変地異がおこったとあります。それはキリストの十字架がどんなに重大な大切なことであるかと言っている。
しかし復活の時には、しるしも、奇跡もなかった。復活の主は静かに「あなたに平和があるように」と言われた。キリストの復活以上に大きな」奇跡はないのだから、外のしるしや奇跡はいらないのです。太陽が出ている時は、星がどんなに輝いても、太陽の前では輝かないように。今日も、明日も復活のキリストは、「平和があるように、シャローム」と私たちの日常の中に来てくださいます。主に感謝