安心してゆだねて

毎年、秋になると、幼稚園や学校では、運動会を行っています。
うちの長男が通っていた幼稚園でも、毎年運動会がありました。午前には、子供たちが日ごろ練習していたことを発表し、午後になると、さまざまなゲームや試合などをします。親子が一緒にすることもあり、子供たちだけがすることもあります。そしてこのように試合を始めると、応援も始まります。特に子供のかけっこが始まると、応援は火花を散らします。みんなが自分たちの子供の名前を呼びながら、頑張れと応援します。

うちの長男は、足が速い方です。
年少クラスの時は、2等とかなり大きな差で1等になりました。それで年中の中でも1等になるだろうと思いました。幼稚園の先生たちも長男がよく走るということを知り、一番外側のラインで走らせました。そのため、カーブ区間から遅れはじめて、差がつき、結局、1等には追いつきませんでした。正直に言うと、残念でした。しかし、長男にはうまく走ったと励ましてやりました。「あなたが最高だった」、「素晴らしかった」と言いました。昨年は雨天のため、運動会が行われませんでしたが、運動会を目指して長男と一緒に走る練習もしました。自分の子供を応援しない親はいないと思います。何でもうまくすることを願って、よく成長することを応援すること、それが親の心でしょう。そして今日の福音書もこのような観点から見ることができると思います。

今日の福音書でイエス様は、弟子たちに応援のメッセージを送っておられます。
弟子たちは、しばらくすると、肉体的にイエス様と離れるのです。イエス様は、ご自分の使命を終え、父の右に戻られます。そして弟子たちはこの世に残って、イエス様の掟を守らなければなりません。イエス様の掟を守るということには、イエス様の教えを宣べ伝えるということも含まれています。これは、簡単なことではありません。それでイエス様は、弟子たちに応援のメッセージを送っておられます。今日の福音書16節の御言葉です。

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緖にいるようにしてくださる。」

イエス様は弟子たちに弁護者をお遣わしになると言われます。
弁護者という言葉は、ギリシャ語でパラクレートスと言います。
私たちが読んでいる新共同訳聖書では、この言葉が弁護者と翻訳されていますが、新改訳聖書では、助け主と翻訳されています。英語の聖書では、Comforter、Counselorなどに翻訳されていますが、このすべての翻訳は、パラクレートスの元の意味にふさわしい言葉です。だから、私たちが注目しなければならないことは、パラクレートスの翻訳とかその方の特定な役割などではありません。イエス様は父にお願いして、パラクレートスをお遣わしになる理由に注目しなければなりません。その理由は、この弁護者が弟子たちと永遠に一緒にいるようにするためです。

そしてイエス様は、この弁護者を「別の弁護者」だと言われました。
「別」という言葉は、すでに弟子たちのために弁護者がいるということと、その方がイエス様ご自身であるということを示します。だから来られる弁護者もイエス様と同じようにしてくださるでしょう。弟子たちと一緒におられ、弟子たちの考えと心を守ってくださるのです。たとえ、弟子たちがイエス様と肉的に離れることになっても、弟子たちだけがこの世に残るのではありません。イエス様がお遣わしになる弁護者、別のイエス様が弟子たちと一緒におられます。本文17節でパラクレートスについてのイエス様の紹介は、ヨハネによる福音書1章でのイエス様についての紹介と同じです。

「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである(17節)。」

神様の御子が受肉してこの世に臨まれたように、別の弁護者も弟子たちの中に臨み、弟子たちと一緒におられるのです。そして弟子たちを応援してくださるのです。この約束は、当時の弟子たちだけでなく、現在、イエス様の弟子である私たちにも有効です。イエス様がお遣わしになったパラクレートスは、今、私たちの中に臨まれ、私たちと一緒におられます。私たちがどのような状況にいても、弁護してくださり、助けてくださいます。相談してくださり、慰めてくださいます。そして、私たちをいつも応援してくださいます。人生というレーンの上を、信仰生活というレーンの上を走っている私たちを応援してくださいます。

しかし、常に私たちがその応援通りに、うまく走っているのではありません。
私たちの体が弱くなったり、いくつかの誘惑に陥ったりして、心が揺れる時があります。そういう時は、私たちは私たちに向けられた応援の声を聞かなくなります。これは、イエス様の弟子たちも同じでした。彼らも多くの誘惑によって、心が揺れ、肉体の問題で恐れました。それで、他の人々にイエス様の教えを伝えられず、自分たちでさえも、イエス様の教えを守られませんでした。しかし、そのようになったとしても、弟子たちに向かったイエス様の応援が止まるのではありませんでした。むしろイエス様は、もっと強く、弟子たちを慰め、助けてくださいました。イエス様はこのように言われました。

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る(18節)。」

思ったこともないことや、良くない状況が起こると、そのことによって、私たちの信仰は揺らぐこともあると思います。しかしそのようなことが、私たちに向かったイエス様の愛を妨げることはできません。私たちがどのような状況に置かれても、イエス様の応援は続きます。いつも私たちと一緒におられ、私たちを導いてくださいます。そして、その応援が私たちを生かしてくださるのです。その中で私たちは、イエス様が私たちの中におられることが分かるでしょう。20節の御言葉です。

「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」

今日の福音書を通して、イエス様は私たちに応援のメッセージを送っておられます。
弁護者を遣わす、その方があなたがたと共にいる、みなしごにはしておかない、わたしもあなたがたの内にいる。このすべての言葉は、いつも私たちを応援してくださるというイエス様のご意志を表すことだと思います。そして私たちは、そのご意志の中で平安になることができます。イエス様の応援は、私たちが決められた道を走り終わるまで止まりません。また、走り終わった人には、誰でも義の栄冠が与えられるのです。その応援の声に耳を傾ける皆さんになりますように。その応援が皆さんのすべてを回復させてくれますように主の御名によって祈ります。アーメン。