三位一体主日 マタイによる福音書28:16~20
私はうちの子供たちを育てながら、ときには、子供たちの将来を頭に描くことがあります。
2・30年後、息子たちはどんな人になっているだろうか。多分、様々な職業の一つを選んで働いているでしょう。息子が三人がいますので、一人は牧師になっていたらいいと思います。もちろん、牧師になることだけを望んでいるのではありません。牧師にならなくても、熱心な信徒になって教会や隣人に仕える人になることを望んでいます。教会の長老になったら、さらに望ましいことでしょう。信仰をよく守っていて、それを人々に認められている証しだからです。私がこのような息子たちの姿を頭に描くのには、理由があります。信仰は、世代につながっていくからです。私たちもその過程の中にいて、その過程の中で未来を準備しています。私たちに与えられた教会と宣教は、私たちを通して、未来につながっていくのです。だから未来を夢見て、現在準備することが、今の私たちがしなければならないことだと思います。しかし、未来は100%私たちが望んでいる通りにはならないでしょう。でも、大丈夫です。神様が私たちと共にいてくださるように、未来の信仰の子孫たちとも共にいてくださるからです。
今日の福音書には、弟子たちを派遣なさるイエス様の言葉が書かれています。
一般的に、派遣というものは、任務を与えて送ることを意味しています。だから派遣をするためには、派遣のための教育や資格などを備えさせなければなりません。弟子たちは、約3年間、イエス様と共にいて学び、いろいろな奇跡と復活までも経験しました。このようなすべての過程は、派遣のための十分な教育になったと思います。しかし、十分な教育を受けたとしても、完全になることではありません。ですから、イエス様は弟子たちに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(20節)」と言われました。これは派遣をなさったことで終わるのではなく、弟子たちのことを続けて助けてくださるということです。イエス様はいつも共にいてくださるということです。そして、この約束は、毎週礼拝を通して、この世に派遣される私たちにも続いています。私たちが教会にいるときだけでなく、帰るときにも、イエス様は、私たちと共におられます。いつも安心してください。主が共におられます。
今日の福音書16節を見てみましょう。
「さて、十一人の弟子たちがガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。」
イエス様は弟子たちを山で呼ばれます。そして、その山で弟子たちをこの世に派遣なさいます。聖書での山というところは、聖なるところを示しています。モーセが神様と初めて出会ったところも山であり、十戒を受けたところも山でした。エリヤがバアルの預言者たちと霊的な戦いをして勝利したところも山でした。だから山に登って派遣されたということは、深い意味があるということです。イエス様の派遣は、公的なことであり、その派遣は聖なる山で行われました。つまり、弟子たちの派遣には、神様の御心もあったということです。
そして17節を見れば、弟子たちはイエス様に会って、ひれ伏します。
ひれ伏すということは、ユダヤ人が神様だけに行う敬拝の表現です。他の福音書でも、弟子たちが復活なさったイエス様に会う場面が書かれていますが、イエス様の前にひれ伏したことはありませんでした。ところが、今日の福音書での弟子たちは、イエス様に会ってひれ伏します。これは、弟子たちがこの派遣を神様からの派遣として受け入れたのだと思います。そして、マタイによる福音書の著者も、この派遣を神様からの派遣として描いているのです。聖なる山で行われた神様の派遣。これはまるでモーセやエリヤの派遣と同じです。素晴らしいことであり、栄光の派遣です。ところが、この派遣の記事には、玉に瑕のようなことが一つあります。それは17節の言葉です。「しかし、疑うものもいた。」
疑う者がいるというのは本当に不思議なことですね。
何を疑っているのでしょうか。何を疑っているのかは分かりませんが、確かなことは、聖なる派遣の場面でも疑う者がいたということです。あり得ないことでしょう。ところが、驚くべきことは、イエス様は山に登ったすべての弟子たちに福音を宣べ伝えなさいと言われました。疑う人も派遣なさったのです。私はこの言葉を読んで、改めて新鮮な衝撃を受けました。
そして、イエス様の派遣が持っている大きな恵みに感動しました。
私が日本に来る前に、私は韓国で牧会をする準備をしていました。
日本語を一言も喋ることができなかった私にとっては、日本での牧会は無理だったからです。当時、日本に派遣される資格を持っていた人は、私を含めて4人でした。3人は国内での牧会を選択し、私は明確な答えをしていませんでした。そんなある日、この4人を対象とした面接がありました。面接官の一人が私に、「日本に行って宣教しようと思ったら、命をかけてしなさい」と言いました。海外宣教について考えたことがなかったからでしょうか。それとも、権威主義的な面接官の言葉が耳に逆らったからでしょうか。この言葉に、私は「それでは、国内で牧会をします」と答えてしまいました。それで、日本への派遣はうやむやになるようでしたが、今、皆さんがご覧になっているように、私は日本に来ることになりました。面接のとき、私が「国内で牧会をします」と言ったのは、いろいろなことが気になったからでしょう。そして、気になったことの中では、疑いももちろんありました。果たして私は、日本語がうまく話せるようになるのか、私は日本によく適応することができるのか、文化や考えが違う人々のために牧会することができるのかという疑問などがありました。このような時には、神様の御心を求めて、祈ることが正しい姿でしょう。しかし、私は疑うことばかりをしていました。
それにもかかわらず、私は派遣されました。
疑っていた弟子だったのですが、イエス様は私をこの場所に送られました。イエス様は疑う者は派遣される資格がないと言われませんでした。疑う者にやめなさいとも言われませんでした。逆にトマスのように復活を疑う者もイエス様の弟子になれるし、疑う者も福音のために派遣されることがあるということを示してくださいました。なんという大きな恵みでしょう。ご自分を疑う者たちを信じてくださったのです。そして、イエス様はこのように言われました。
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(19-20節)。」
イエス様は弟子たちにも、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けと言われます。
これは聖なる御名を私たちみんなに、疑っている者にも与えられたのです。それだけでなく、これは、私たちみんなを三位一体の神様の中に招待してくださるのです。私たちが三位一体の神様の名によって働くことができるように、私たちが三位一体の中にいることができるように招待してくださったのです。そして、その三位一体の神様は、世の終わりまで、いつも私たちと共におられます。私たちに平安を与え、私たちがイエス様の後を継いで隣人と教会に仕えることができるように私たちを導いてくださるのです。父と子と聖霊から来る恵みと平安とが皆様と共にありますように。私たちの疑いと関係なく、私たちを信じてくださるイエス様の愛が皆様と共にありますように、主の御名によって祈ります。アーメン。