いつもあなたがたと共にいる

三位一体主日 創世記1:1~2:4a|Ⅱコリント13:11~13|マタイ28:16~20

 3月の最後の礼拝から長いながい日々を感じます。やっとのことでこのように 礼拝に与ることができました。最後の礼拝から2か月余りの間それぞれの思いの中ですごされたと思います。事業をされている方々は、売り上げが落ち込み、倒産したところもありました。アルバイトの仕事がなくなり学生生活ができなくなり、大学を辞めなければならないと話している学生の方もありました。わたしの嫁の実家がある山形では、コロナウイルスに感染した方の家の窓ガラスが石で割られたとのことも聞きました。一方、感染した方が治療のあと、隠さず、公表したことで、関係者から理解され、仕事のうえで協力が得られたとの心温まるお話も聞きました。今度の件では、大きな困難がありました。世界の方々が悩み、不安の中で過ごされたと思います。わたしは今回の困難の中で、ヨハネの黙示録を学ぶ機会が与えられました。難しいと思われるこのところですが、様々な書物、注解書を参照しているうちに全く正反対の考え方が出てきましたので、参考にすることはもちろん大切ですが、聖書に書かれているとおりによく読み、黙想していくことが理解するうえで一番良い方法であるとの結論に至りました。このことをヨハネの黙示録をとおして学んだ次第です。聖書というものが、神様からの手紙であるならば、あくまでも字義通りに理解していくことではないかと思います。書いてあるとおりに読んでいく必要があるのではないかと思いました。礼拝の中では取り上げられることの少ない箇所ですが、この2か月の間わたしが聖書についてあらためて感じた次第です。決して損なことばかりではなかったと思います。本日の箇所も同様であると思います。聖書をよく読み、祈りの中で、神様のお言葉としてとらえていかなければならないと思います。わたしたちを正しい道に導かれる聖書をとにかくよく読むということに尽きるのではないか。二か月余りの間でわたしが心に刻んだことです。皆様はどのような2か月でしたでしょうか。
この新型コロナウイルスの感染拡大に対応する制約の中でも神様は寄り添い教えてくださる、その神様の偉大さにあらためて感謝する次第です。

 本日のマタイによる福音書の命令は「あなたがたは行ってすべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」となっています。ガリラヤに行き、指示された山に行き、イエスさまの方から近寄って来て言われたとあります。イエスさまの弟子となることはどうすることでしょうか。
父と子と聖霊の神様の交わりに導き、父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、イエスさまの命じられたことすべてを守るように教えなさい。イエスさまの言われた御言葉に学びなさい。その御言葉により、集会で、また教会で互いに磋接琢磨し、互いに互いの成長になるように励ましあいなさいと言われているのではないでしょうか。イエスさまはこのことを11人の弟子に言われました。言うまでもなくわたしたちにも言われています。11人の弟子は優れているわけでもなく、どちらかと言うと失敗ばかりでありました。イエスさまに対しても偉そうなことを平気で言うような常識のないものでもありました。しかしイエスさまを愛することにおいては、優れていたのかもしれません。ペトロはイエスさまの十字架を前にして、知らないとイエスさまを三度も否定したのでした。しかし、宣教し、迫害に会い、逆さの十字架で死を遂げたと言われています。トマスも手に十字架のくぎのあとを見なければ、また脇腹に手を入れて見なければイエスさまの復活を信じないと言ったのでした。マタイは、弟子となる前はローマ帝国から徴税業務を請け負った徴税人でした。徴税人は、受け取った額から、決まった額をローマに納め、余った額はふところに入れるようなことをしていたようです。ある時、マタイは食事の席にイエスさまや弟子たちを招きましたが、ファリサイ派の人々から、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言われましたが、イエスさまはきっぱりと言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と(マタイ9:11~13)
イスカリオテのユダはイエスさまをお金のために売ったのでした。このような弟子たちでしたが、神様は人が罪を犯すことは解っていたのです。ユダは罪深さに気が付きました。しかし、気が付いた時、そのあとどのように生きていくか、どのように方向転換していくかが大切ではないでしょうか。自分の罪深さ、至らなさに気が付いた時、神様にゆだねていくか、いかないか、ということではないかと思います。
イエスさまは弟子たちをお選びになり、愛されたのでした。ですが、完全だから、優秀だから選ばれたのではありません。弟子たちは世界のあらゆるところへ行き、殉教しました。弱さのために失敗をしましたが、死に至るまでイエスさまに従ったのでした。弟子とさせていただくのは、その一途さ、直向きさがあるかないかではないかと思います。
イエスさまをお金のため、売ってしまったイスカリオテのユダは、イエスさまから「人の子を裏切るものは不幸だ。生まれなかった方が、その者のためよかった。」(マタイ26:24)それでも一度は弟子となったのでした。イエスさまの弟子となるのでしたなら、罪に気が付いた時、神様に自分を委ねていくこと、神様に向き直ることではないかと思います。ここのところが弟子となるために大切なところでありましょう。完全な弟子などありえないのです。
ですから、本日の第二朗読であるコリントの信徒への手紙ン中で、パウロは常に信徒たちへ苦難の中で厳しくまた、励ましています。そして神様からいただく慰めによってあらゆる苦難にある人々を慰めることができると語っています。違反者には赦して力づけなさいと書き送っています。最後には「兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」とここにもパウロの言葉どおり神様がともにいると励ましています。パウロはコリントにある神の教会とアカイア州の聖なる者たちへこの手紙を送っています。彼はコリント行きを延期したとき、その理由について、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、喜びとなるように協力するものだと言っています。

 では、共にいてくださる神様はどのような方でありましょうか。
第一朗読の箇所の創世記は1章から2章のはじめにかけてですが、天地創造の箇所であります。神様は無から二つの大きな光る物と星を造り、大きい方に昼を治めさせ、小さい方に夜を治めさせられました。そして、夕べがあり、朝があったとなっております。太陽と月そして地球その大きさを比較してみても創造主の偉大さを思います。それから、「神はご自分にかたどって人を創造された。」のです。ですから、神様とのつながりを解くことができないのです。これは大変なことと思います。だからこそ、神様に従うとき、本当の自由、本当の安らぎを得ることができるのでしょう。神様はご自分にかたどってひとを創造されたとあります。ゆえに、神様への従順によって本当の自由が得られるのだと思います。絵画には作者のサインがあり、一流の陶器師も器に名前を入れるでしょう。神様はご自分にかたどって人を創造されたのですから、体のどこかに創造主の名がしるされているのかもしれません。ですから、この神様に従うとき、本当に心が自由になるのだと思います。
聖書のはじめは、創世記により、天地創造の偉大なる神様がしるされており、これから起こることを、聖書の最後の箇所、ヨハネの黙示録で記しています。「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」とあります。

 今日も、わたしたちの創造主の父なる神様、天と地の一切の権能をお持ちのイエスさま、そして聖霊が一つとなり、わたしたちを覆っていてくださっています。

 神様は、本日与えられたマタイによる福音書の最後で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束しています。
安心して前進していきましょう。