聖霊降臨後第五主日 ゼカリヤ書9:9~12
今回、久し振りに大宮教会での説教の依頼がありました。実は当初は7月5日ではなく、クリスマスでの奉仕というお話でした。だがここ数年、私は息子たちの家族と一緒に、東京のある教会のクリスマス礼拝に出席しており、今年もそのつもりでしたので、それをお断りしました。そうしましたら逢坂さんが、では7月5日ではどうでしょうか、とおっしゃいました。なぜ7月5日か、ということは聞かないで、わたしは喜んでお引き受けしたのですが、その後、その7月5日、つまり今日の主日の礼拝での聖書日課を調べて、わたしは思わずあっと声をあげてしまいました。そこになにか深い主のお導きを感じたのです。本日の礼拝説教をわたしは、旧約聖書の日課、つまりゼカリヤ書9章9~12ですることにしましたが、それが実は、それが驚きの原因の一つです。このみ言葉が日課として礼拝でよまれるのは、いままでですと夏ではなく、冬、それもクリスマスシーズンの始まりのところでした。その時に、わたしたちは、イエスが地上でのご生涯の最後にエルサレムに入城された出来事をマタイは21章、マルコでは11章、ルカでは19章で読むことにし、そのエルサレム入城の出来事が、このゼカリヤ書9章9~12の預言書の成就であるとし、旧約の日課としてそこが読まれてきました。クリスマスシーズンの最初、つまり待降節の最初の主日、教会の暦の一年の最初の日の日課です。ところが今度新しく採用された日課では、なんと冬のクリスマスシーズンでなく、真夏7月の第一主日にこのゼカリヤ書9章がきているのです。これがわたしには驚きでした。その理由についてわたしなりに考えてみましたが、ともかく12月の初めにあった日課が、突然、7月になっているのです。だが、わたしが驚いたのには、もっと個人的なことがあります。実は、このゼカリヤ書の新共同訳聖書の翻訳者が私自身だったということです。そのわたしが、説教奉仕を依頼され、その箇所が、そのゼカリヤ書だ、ということです。まさか、それを大宮教会のだれかが知っていて、柴田に頼めといったなら、まだわかりますが、そうではないでしょうから、その偶然にわたしは驚き、そして主のみ計らいを感じたのです。聖書はまた昨年、新しい翻訳が出版され、聖書協会のいままでの歩みが、一冊の本になって出版され、そこでは新共同訳聖書の翻訳に携わった方々の名も公になっていますので、わたしがここではっきり申し上げてもよいと思いますが、旧約聖書の最後の三つの預言書と旧約続編のマカバイ一、二が、わたしが翻訳の責任をとった箇所でした。すべに1987年、30年前に終わった大きな事業でしたが、翻訳にかかった17年間は、わたしにとってはとても重い、しかし充実した日々でした。しかし、率直に言って、わたしの担当したこれらの箇所は、創世記やイザヤ書、エレミヤ書といった、日課にもしばしば取り上げられる聖書箇所と違い、とてもなじみのうすい、礼拝日課として拝読されるのも、クリスマスシーズンに、主のエルサレム入城とのかかわりで選ばれるだけでした。だが今回は、今日それが選ばれているのです。聖書日課は3年周期ですので、ことによると今日は、3年にただ一度の出会いをしているのかもしれません。これは驚きで、主のみ計らいとしか思えません。
率直に言って、クリスマスシーズンならいざ知らず、その他の季節にこの聖書箇所で説教するのは、わたしとしては初めてのことです。いったいどうして、この夏のさかりに、このゼカリヤ書の9章の預言が与えられているのでしょうか。そのためには、どうしてもこのゼカリヤという預言者について、知っておかなければならぬことがあります。
いったいゼカリヤという預言者はどのような人だったのでしょうか。旧約聖書において、彼が非常に重要な預言者とされているのには、ひとつの出来事が関係しています。彼は紀元前6世紀に、もうひとりの預言者であるハガイ、これもわたしが翻訳の担当をしたハガイ書の主人ですが、そのハガイとふたりで、ある大きな、歴史に残る仕事をしたのです。それはなにか。紀元前6世紀後半に、バビロンで捕虜、捕囚生活をしていたユダヤ人たちが、バビロン帝国を滅ぼしたペルシアの王キュロスの配慮によって、捕虜地バビロンから夢にまで見たエルサレムに70年振りに帰還しました。有名なバビロン捕囚からの解放です。紀元前539年のことです。かなりの数の人々がはるばる砂漠を越えてエルサレムに帰ってきました。しかしそのエルサレムは、かつてバビロンの軍隊によって徹底的に破壊され、民族の象徴でもあった神殿も跡形もなく、廃墟になっていました。しかしペルシアの王キュロスは、この帰還の民をサポートして、その神殿の再建をおおいに援助したのです。この神殿の再建を夢見て彼らは帰ってきたのです。しかし70年も留守にしていればその土地はどうなりますか。ましてや戦争に負けたのです。留守にした70年の間にその土地に住み着いた別の種族や民族がいても当然ですし、彼らは帰還の民の、神殿の再建に反対し、また妨害をし、キュロス王がなくなると、次の王に訴えでて、神殿の再建の中止を訴え、「この帰還した民に神殿の再建をゆるしたら、それはペルシアの国の内側から反乱になり、国の平和を損ねかねない」といったざれ言までして工事を中断させてしまったのです。その中断は十年、十五年と続きました。もう帰還した人々もあきらめてしまうという状態でした。その時、そうはさせない、として、民衆を叱咤激励した二人の人物がでたのです。それがハガイとこのゼカリヤだったのです。この二人の活動で、帰還した人々は帰還の初心に立ち返り、神殿の再建にとりくみ、ついに515年に再建が完成し、その神殿が第二神殿と呼ばれ、イエスさまの時代に聖書の中にでてくる神殿なのです。その神殿の再建の功労者のひとりが、この預言者ゼカリヤだったのです。しかし、ただ再建をしたばかりではありません。神殿が再建された場所は当然エルサレムですが、そのエルサレムにメシア、救済者がやってくるという預言をゼカリヤはしているのです。それが今日のこの日課の預言の言葉なのです。イエスはこのゼカリヤの預言にあるように、人々の歓喜の声の中で、ロバにのってエルサレムに入られました。これは福音書がひとしく記録している有名な出来事です。このイエスのエルサレム入城と、この世に来た幼子イエスの話を重ねて、いままではこのみ言葉を、教会はクリスマスに読み、また牧師が一年の初めに、わたしたちもこのようにイエスを迎えましょう、といって説教してきたのです。わたしもそういう説教を何度もしてきたわけです。だが今日は、わたしたちは、この預言が持つ、もう一面の重要な言葉に目をむけなければなりません。
ゼカリヤはただ神殿の再建を、叱咤激励して完成させただけでなく、その神殿がただの建物として形骸化してしまうことも見通し、その神殿以上のものをさし示しました。それはこの預言の後半のみ言葉にあることです。来られたメシアが、平和の主である、ということです。これがこの預言の重大なメッセージです。ゼカリヤは言います、「わたしはエフライム戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てまで及ぶ」。ただメシアの到来を祝うだけではない。そのメシアがなにをするか、それに注目しなければ、お祝いは空騒ぎに終わってしまうかもしれません。戦車ではなく、軍馬ではなく、弓矢ではなく、つまり戦争の道具にはお別れを告げる時がくる、というのです。それがメシアの仕事、いや目的だ、というのです。みなさん。これは2千年以上も前のこの言葉です。しかし、なんと思い響きをもって今、21世紀を生きるわたしたちに響いてくることでしょう。なぜか。いまもなお、わたしたちが、平和を武器を持つことによって守ろうとしているのが現実だからです。どこの国も予算にも、武器のために莫大な予算がくまれています。日本しかり、アメリカしかり、中国しかり、ロシアしかり、です。これは本当に人類の病根ではないでしょうか。わたしにはこの問題を思う時、いつも心に浮かぶことがあります。元アメリカ大統領だったアイゼンハワーが、任期を終え、ホワイトハウスを出る時の退任演説で言った言葉です。彼はいま一番問題なのは、Military-industrial complexだ、と言ったのです。ぐんと産業界の協力が問題だ、と軍人であった彼が言ったのです。わたしがいところのアメリカでは軍事産業に従事しているひとが、なんと7人にひとり、といわれていました。大変な数の人が、武器の製造に携わって生活していたのです。その武器はたまれば、たまるほど、どこかで使わなければ困るわけです。ですから、アメリカにとって一番大きな仕事は、いかに武器をよその国に売るかです。それは中国も、ロシアも同じでしょう。だが、その武器の中には、一度でも使えば、こんどは人類が終わってしまうだろう、と思わせる爆弾も含まれているのです。かつて、ヨハネ・パウロ法王が、今度戦争をやれば、もう勝ち負けはない、両方負けだ、と言いました。もう人間が住めるような台地がなくなってしまうというのです。福島の原発事故の処理が何十年もかかる、といわれていますが、地球全体がそうなってしまったら、もう、勝ち負けもありません。人類の崩壊です。だから軍事力的に世を治める平和は、自己矛盾です。まさにゼカリヤが、メシアについて預言しているように、戦車、軍馬、弓矢ではないのです。そういうものによらない平和が重要なのです。それはなにか。イエスです。そうではないですか。このゼカリヤの預言の成就は平和の成就でもある筈です。そうであるなら、今日ほど、このみ言葉を聞く重要性はほかにありません。そしてこのみ言葉を聞いた教会が、今度は勇気を持って、これを今日の福音として語っていく大きな責任がある、と思うのです。そう考えるなら、このみ言葉をやがて終戦の記念を迎える夏に聞くことが、いかに重要なことか、わたしはそれが今日与えられたこととして感謝し、説教を閉じます。主のみ守りと導きがみなさんの歩みの上にありますよう祈り、感謝します。