聖霊降臨後第六主日 マタイによる福音書13:1~9、18~23
20代のときにはほとんど関心も興味もなかったのですが、最近は草花に目がいくようになり、道に咲く花や教会の植え込みに咲く花や草を見て、「綺麗だ」と思ったり「逞しいな」と感じたりして、心がほっこりしたり、励まされたりしている自分がいます。神さまが創造した草花、そのあるがままのいのちの姿に、感動や、力、勇気、希望をもらっている自分がいます。
あるがままのいのちの姿に感動するといえば、子どももそうです。僕には息子が二人いますが、神さまが与えてくれた唯一無二の尊い、いのちの存在はいてくれるだけで、幸せだと思えるし、笑顔になれる、嬉しくて心がほっこりすることがたくさんあります。
子どもは、そこにいるだけで周りの人の心を和ませてくれます。何十回、何百回、ころんで、つまずいて、尻もちをついても立ち上がって一生懸命に歩こうとする姿に力と勇気をもらいます。
神さまは私たちに与えてくださっている、いのちの存在を通して沢山の愛と恵み祝福の種を心に蒔いてくださっています。そして、神さまは、ご自身のみ心であり、みことばであり、愛である、御子イエス・キリストをこの世界に、私たちに与えてくださいました。
私たちは、御子イエス・キリストによってあらわされた神さまのみ心、みことば、愛にどれほど励まされてきたことでしょうか。み言葉にどれほど救われ、どれほど慰められ、生きる力、勇気、希望が与えられてきたことでしょうか。30回、60回、100回…。数えきれないほど神さまのみ言葉、神さまの憐みと愛とは私たちの心に慰め、励まし、いやしを与えてくださった。
私たちは、そのすばらしい経験、体験をこの身をもってしているから、みことばを聞くこと、キリストについて語ること、キリストを中心とした交わりの中にいることをやめられないし、とめられない。神さまが与えてくださったみ言葉は必ず30倍、60倍、100倍、何倍にも実ることを知っているから、私たちは神さまの言葉であり、愛であるイエス・キリストのことを聞き、語り、伝え続ける。
神さまは私たちのために多くの恵みを備え、与え、導いてくださっています。そしてイエス・キリストも私たちの救いのために与えてくださいました。神さまのなさることに落ち度はないし、手抜かりもないと僕は信じています。生きていれば、「どうしてこんなことが」なんて出来事がいろいろと起こりますが、私たちには見えない深いところでなされている神さまの働きに落ち度はない。私のような未熟で、浅い理解では分からなくても、神さまのみ心と愛の語りかけ、働きかけは、私たちの心に必ず豊かな実を結ぶのだ、ということを信じています。
目先にある厳しい現実はいつでも私たちの心を覆い、暗闇の中へと引きずり込もうとするでしょう。しかし、神さまの業はいつか必ず実を結ぶ、という確信、信頼、信仰は、私たちを目先の現実に引きずられない、負けないものとしてくれます。自分の思いどおりにならないことは沢山あるけれど、神さまの思いは必ず果たされ、神さまの働きは必ず実現し、必ず実を結ぶのだという信仰が、私たちに生きる力、勇気、希望を与えてくれる。だからイエス・キリストは宣言するんです「あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結ぶのである(23節)」と。
イエスさまのもとにはいつも多くの人々が集まって来たということが聖書に記されてあります。今日の聖書箇所13章1節にも、「大勢の群集がそばに集まって来たので」とあり、イエスさまは彼らに聞こえるように、伝わるようにわざわざ舟に乗って、彼らと少し距離をとり、岸辺に立つ群集に語りかけ、福音を宣言されたのです。
イエスさまのもとに集まってきた大勢の群集はどのような人びとだったかと言えば、いろいろなことに余裕がある人たちではなかった。きっとギリギリの生活をしていた人が多かったと思います。生きる力、希望、信じられるものが欲しいと心の底から望んでいた人々だったのではないでしょうか。イエスさまの口から語られる一言でもいいから耳にして、生きる勇気や力、支え、励まし、慰め、癒し、希望が欲しかった人々だったと思います。
そんな彼らにイエスさまはしっかりと向き合い、神の言葉、救いのみことば、福音を語りました。みんなに届くように、みんなに分かるように、みんなに聞こえるよう舟に乗って、大声で100倍、60倍、30倍の実りがあるみことばを語ったのです。
神さまが両手いっぱいにある愛と恵みと祝福の種を、惜しみなく、沢山、ふんだんに蒔いてくださる。神さまの愛の種、恵の種はこの世界に、私たちの心に蒔かれている。その種は何倍にもなって豊かに実る可能性を秘めている。そのことを信じて、希望をもって生きることをイエスさまは呼びかけるのです。
神さまは預言者イザヤを通してこう言っています「雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ種蒔く人には種を与え 食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす(イザヤ55:10~11)」と。
神さまのみ言葉は使命を必ず果たし、豊かに実ること、そして、確かに神さまのみ言葉は私たちの心で豊かに実り、救われていることを思うからこそ、いつでも私たちは、神さまのみことばを聞くことを望み、みことばに強められることを願い、みことばに生かされていくことを求めるでしょう。
実りを知ったから少しの困難も何のその、目先の現実だけに囚われることなく、神さまの限りない愛と、恵みとを思いお越しながら生きることができる。実りを知ったからちょっとやそっとじゃ諦めず、神さまの愛と恵の実りを知らない人たちに、知ってほしいと思い、願い、祈る自分がいる。実りを知ったから、キリストの名による繋がり、関わり、交わりを大切にし、キリストの名による教会の和の中に身を置くことを望むの私たちがいる。
これからも私たちは神さまが惜しみなく、ふんだんに蒔かれる愛と、恵みと、祝福の種を沢山受け止めながら、何倍にもなる実りを期待して、信じて、生きる力と勇気と希望とをいただきながら、感謝しながら生きていく者でありたい。神さまのみ言葉によってますます心を豊かにしていただき、励まされ、慰められながら生かされていく者でありたい。
そして、神さまが惜しみなく、ふんだんに蒔いてくださっている愛と恵の種を、一人でも多くの人に届け、伝え、分かち合い生きる者でありたい。