聖霊降臨後第12主日 マタイによる福音書16:13-20
私と妻は、来週の24日が来ることを待っています。
来週になると、子供たちの夏休みが終わるからです。約3週間程度の短い夏休みでしたが、忍耐の必要性を感じた時間でした。夏休み中、私が子供たちにたくさん言った言葉の一つは、「ごめんなさいはしないの?」と「許してくれないの?」という言葉でした。それほど子供たちがよく喧嘩したというのです。そう言うと、子供たちはすぐ「ごめんね」、または、「いいよ」と言って、ぴたりと泣きやんで、改めて仲良く遊び始めます。このような子供たちを見ながら、子供たちにも学ぶことがあると思いました。大人は子供のように簡単には喧嘩しません。しかし、一度喧嘩すると、ごめんなさいという言葉も言わず、簡単に許すこともしないようです。自分は誤ったことがないと思ったり、自分が傷ついたことを、人との関係の回復よりも大切に思っているようです。それで、時には子供たちがうらやましいと思うこともあります。よく喧嘩しても、簡単に許して、和解するからです。イエスさまは「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と言われました。その言葉が意味していることを悟る私と皆さんになりますように。
今日の福音書もこの許しと関連している言葉です。
今日の福音書は、大きく2つに分かれていますが、一つは、ペトロの信仰の告白であり、もう一つは、その告白の上に与えられた天国の鍵です。なぜ、信仰の告白が大事なのか、天国の鍵が何を意味しているかを調べてみましょう。まず、今日の福音書13節の言葉をみます。
「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。」
イエスさまは弟子たちを連れてフィリポ・カイサリア地方に行かれました。当時フィリポ・カイサリア地方は、イスラエルの最北端にあった所です。そこは、ローマ皇帝カイザルがヘロデ大王に与えた土地でしたが、ヘロデ大王の子フィリポがこの土地を新たに整備しました。フィリポは、この土地をローマの文明中心地として建設し、自分の名前と皇帝の名前を付けてフィリポ・カイサリアと称しました。フィリポ・カイサリアは異邦の地域ではなく、イスラエルの地域に属している場所でしたが、ユダヤ人は少なく、様々な民族が住んでいました。そのため、ローマの神殿、特にパーンという神の神殿が大きく占めていて、水源地だったので、土地が豊かだったそうです。
イエスさまは、いつも活動なさったガリラヤ湖を離れ、このフィリポ・カイサリアという所に行かれました。ガリラヤ湖からフィリポ・カイサリアまでは、歩いて二日もかかったそうです。そして、その場所でペトロから「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰の告白を聞かれました。このメシア、神の子という称号は、元々ローマの最初の皇帝、フィリポ・カイサリアのカイサリアであるアウグストゥスに与えられた称号です。ところが、ペトロは皇帝に与えられたその称号をイエスさまに付けます。そして、その皇帝の名が付けられた地で、イエスさまを神の子として告白します。なぜイエスさまはフィリポ・カイサリアまで行かれたのか、なぜそこで「人々は人の子のことを何者だと言っているか」、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになったのか。このすべてのことには意味があると思います。
弟子たちや初代教会の信徒たちは、フィリポ・カイサリアという地方が持っている特徴をよく知っていたでしょう。様々な神殿があった所、皇帝の名が付いていて、皇帝の神殿もあった所、そしてその場所でのペトロの告白。これは、イエスさまがそれほど待っていたメシアであり、新たに来られる王であるということを意味していることです。他の人々は、イエスさまを預言者の一人だと言いました。洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、エレミヤだとか預言者の一人だと思っていました。しかし、イエスさまに従っている人にとってのイエスさまは、預言者の一人ではありませんでした。本当の神の子であり、メシアでした。そして、その宣言がフィリポ・カイサリアで下されたのです。多くの神殿の前で、皇帝の名がついている都市で、イエスさまはメシアだということが告白されたのです。
今、私たちにとってのイエスさまは、メシアであり、神の子です。
私たちは、これをいくらでも告白することができ、どこでも宣言することができます。しかし、当時にこのような話をするのは、難しいことでした。帝国になったローマは、多くの国を治めなければなりませんでした。よく治めるために、ローマが選択したのは、皇帝を神格化することでした。このことは進んで、イエスさまの時代と初代教会の時代には、すでに皇帝の神格化が完成され、神殿もありました。このような状況では、イエスさまをメシアとして、神の子として、告白するということは、命がかかった非常に危険なことでした。しかし、弟子たちと初代教会の信者たちは、この告白をすることを恐れていませんでした。彼らにとって神の国は、皇帝が治めるこの世よりも大事だったからです。
これを最初に告白した人は、ペトロでした。
ペトロはイエスさまをメシア、生ける神の子だと告白しました。イエスさまはこのペトロの告白にこう言われます。18〜19節の言葉です。
「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
イエスさまは命をかけたペトロの告白を聞かれて、信じられないほどの祝福の話をなさいます。陰府の力も対抗できない教会を建てられ、天国の鍵を与えるという言葉です。そしてここから、カトリック教会と私たちルーテル教会の解釈は異なります。
カトリック教会では、この力と天国の鍵をペトロ個人に与えられたのだと言います。
ペトロという言葉は、岩を意味することとして、この岩の上にご自分の教会を建てられるという言葉は、ペトロを教会の基にするという言葉だと言います。だから、イエスさまはご自分の昇天後に備えて、ペトロを地上の教会の最高の権威者にしてくださったということです。それで、カトリック教会では、ペトロをローマの最初の教皇であり、教会の最高牧者、キリストの代理として見ています。したがって、すべての教皇はペトロの後継者であり、教皇だけに天国の鍵が与えられたそうです。
ところが、ルーテル教会では、この主張に反対します。
特にルターは、自分の本で「この天国の鍵は、全体を代表して、ペトロに与えられたものだ。個人だけに与えられたものではない」と述べています(Luther’s works)。全体というものは、弟子たちを含めて信仰の告白をするすべての人を意味します。ここで、ルターの万人祭司の思想が入っています。ルターは15節の言葉「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」というイエスさまの言葉を通して、イエスさまは、「あなた」とせず、「あなたがた」とおっしゃったと言います。その例として、マタイによる福音書18章18節、ヨハネによる福音書20章23節の言葉をあげます。この言葉は、今日の福音書の9節の言葉のような文章ですが、「あなた」ではなく、「あなたがた」で書かれています。ルターはこの言葉を引用して、ペトロは、代表として告白して、代表として天国の鍵を受け取ったと言います。
この鍵の力は素晴らしいです。
地上でつなぐことは、天でもつながれ、地上で解くことは、天上でも解かれるのです。驚くべき力ですが、この力は、一般的な力ではありません。教会を相手にして、誰も勝つことはできないという意味ではありません。もし力と戦うために、別の力が必要だったら、イエスさまは十字架につけられる必要はなかったでしょう。私は、これが教会の共同体に与えられた罪に対する許しの力だと思います。教会が許したら、天でも許す。しかし、教会が許さなければ、天でも許さないという意味だと思います。イエスさまはヨハネによる福音書20章23節で、共同体の罪の許しについておっしゃっています。すなわち、教会は、神さまの許しをこの世に示す所です。神さまの赦しと忍耐、愛がある所が、まさに私たちの教会です。イエスさまはこのような力が教会に与えられたということを、今日の福音書を通して、私たちに教えてくださるのです。この鍵を持って、私たちがしなければならないことは何でしょうか。つなくこともでき、解くこともできるこの力で、互いに許して、互いに愛する私たちになりますように。私たちにも子供のように快く許して、和解する心が与えられますように。この驚くべき力を持って、隣人に仕える私たちの教会になりますように、主の御名によって祈ります。アーメン