光を受けて

聖霊降臨後第15主日 マタイによる福音書18:21-35

 この時期、息子たちに向かってつい口を突いて出る言葉があります。
息子たちが大暴れして喧嘩したり、いじわるしたり、全然言うことを聞かなかったりしていると、「あー、そんなに悪い子だとサンタさん来ないよ!」、「いい子にしてないとクリスマスプレゼント無いんじゃない」と言ってしまう自分がいます。
クリスマスにサンタさんが来るのも、プレゼントがもらえるのも、いい子にしていたから、頑張ったから、努力したからもらえるご褒美のように伝えてしまう自分がいます。このことはクリスマスの本来の意味とは全く違ことです。
クリスマスの出来事、御子イエス・キリストがこの世界に、私たちに与えられたのは、私たちがいい子だったから、頑張ったから、努力したから、ご褒美として、見返りとして、報酬として与えられたのではありません。
神がこの世界にイエス・キリストを与えてくだったのは、聖書が言うように「独り子をお与えになったほどに世を愛され(3:16)」ているから。大暴れして、ケンカして、いじわるして、言うことを聞かない私たち人間すべてのものの赦しのため、回復のため、和解のため、救いのために、み子イエス・キリストは与えられたのです。
そして神は、この世の何ものにも、誰にも、たとえそれが死であろうとも取り去ることも、消し去ることも、奪い去ることもできない愛の光、キリストの光、まことの光で私たちを照らし、包み込みこんでくださる。国も民族も性別も宗教も関係ない。優れているとか劣っているとか関係ない。高い低い、大きい小さい、強い弱い、関係なく、すべての人をまことの光で照らし、生きる力、勇気、希望を与えてくださる。
僕自身、本当に幸いなことに、恵まれていることに、生まれたときから、今このときまでキリストの光、まことの光に照らされ、導かれ、生かされてきました。
まだまだ人生経験未熟な者ですが、社会の厳しさや険しさを経験し、交通事故で命の危機も経験し、大切な身内を亡くす経験もし、くじけそうなとき、めげそうなとき、心が荒れ果ててどん底の闇に落ち込んだと思った、その底の底にまでキリストの光は射しこみ、生きる力、勇気、希望が与えられ、支えられ、生かされてきました。
だからキリストの光を伝えたい。すべての人を照らすまことの光を知らせたい、届けたい、証ししたい。
洗礼者ヨハネは、光であるイエス・キリストを大胆に証ししていました。それは「すべての人が彼によって信じるようになるためである(7節)」と聖書はいいます。
神さまはいつでも「すべての人」を視野に入れています。神さまにとって、いなくなってもいい存在、どうなってもいい存在、どうでもいい存在なんて一人もいません。神は、すべての人を愛し、すべて人を照らし、すべて人を救いへと導かれるのです。
ヨハネは、すべての人を分け隔てなく受け入れ、洗礼を授け、光について、キリストについて証ししました。ヨハネによって証しされ、伝えられた、神さまのすべての人に向けられている深い憐れみと、愛と、ゆるしの教えはすぐにユダヤ全土に広まり、多くの人々の心を引きつけました。そして、政治と宗教の中心であるエルサレムから祭司やレビ人たちが遣わされてきます。彼らはファリサイ派に属するものであったと聖書は言います。彼らは自分たちが正統派であり、主流であると考えていた人々。罪人と言われるような人々とは付き合わないし、罪人が神さまの救いに与ることができるなんて考えもしないし、そのような教えを受け入れることなど到底できない人々でした。
当然、彼らにとってはヨハネが語る光についての証の言葉も、すべての人を受け入れ罪のゆるしを得ることのできる洗礼の行為も決して気持ちのいいものではなった。ですから放っておくわけにもいかず、エルサレムから祭司やレビ人たちは遣わされたわけです。
彼らはヨハネがメシアなのか、エリヤなのか、預言者なのか、あなたは何ものなのかということを詰問しはじめます。
祭司とレビ人たちの問に対してヨハネは、自分は何ものでもないし、キリストの前では奴隷以下の存在なんだと伝えます。
つまり、人びとがヨハネのもとに集まり、ヨハネの証に強められたり、慰められたり、力づけられ、希望が与えられているのは、ヨハネが誰で、何者で、どのような身分のものであるか、ということに関係なく、ヨハネが証している神の言葉、神の思い、神の愛が、誰もが抱える心の闇に光を灯しているのだということです。
祭司であるとか、レビ人であるとか、ファリサイ派に属する者であるとかに囚われている人にはわからない、気づかない、見失い、見落としてしまっているものがある。人はどうしても地位や、肩書や、身分に左右されたり、流されたり、引きずられたりしてしまう弱さがあるでしょう。
ヨハネは徹底的に神の言葉、神の思い、神の愛だけに権威を置き、ただただひたすらに神さまに仕え、神さまの思いを伝え、キリストの光をすべての人に証しし、キリストだけを指し示し続けたのです。
私たちはみんな、神さまからいのちをいただいた同じ人間です。私たちはみんな、神さまの深い憐れみと、限りない無償の愛と、ゆるしとを受けている同じ人間です。
神さまが私たちにイエス・キリストを与えてくださったのは、私たちがルター派だからでも、日本人だからでも、いい子だったから、言うことを聞くものだったからでもありません。ただただ神さまにとってあなたが愛してやまない、大切な、唯一無二の、貴いいのちの存在だからです。そしてキリストを信じて、キリストによってあらわされた神の愛に応えて、神さまに愛されている同じ人間として、互いに愛し合い生きる者であってほしいからです。
私たちは、この世の誰かや何かに左右されたり、流されたり、引きずられたりしてしまいがちだからこそ、今改めて、私たちのために与えられた神の言葉、神の思い、神の愛であるイエス・キリストを真っ直ぐに見つめて、しっかりと受け止めて、いつでも想い起し、思い巡らし、思を馳せて生きる者でありたい。
神さまがすべての人に与えてくださったキリストの光を受けて、キリストの光に導かれ、キリストの光の中で穏やかな心持で、平安のうちに生きる者、生かされる者でありたい。