主の洗礼主日 マルコによる福音書1:4~11
1月7日に政府からの緊急事態宣言発令を受け、教会に集まっての礼拝は休止することとなり、残念で、寂しくて、辛い思いがあります。自分にはどうすることもできないもどかしさ、人と人との間が引き離されてしまう辛さがあります。
コロナウイルスは得体の知れない病気であることの怖さもありますが、コロナウイルスによって差別や偏見が生まれ、人と人との繋がりが分断されてしまうことや、病院や施設に入っている家族や知人に会うことができなくなってしまうという人と人との交わりが引き離されてしまう辛さ、苦しさがあります。
新型コロナウイルス感染拡大によってこの世界と私たち人間の限界や、脆さ、欠けや、破れを思い知らせれると同時に、いつも当たり前のようにそばにいてくれる家族や友人、教会の人々の存在がどれほど尊いもので、大切なものなのか、ということに気づかされたように思います。
神さまはイエス・キリストを通して、聖書のみ言葉を通して、いのちの尊さ、神さまが結び合わせてくださった家族や知人との結びつきの大切さ、いとおしさを教え、私たちがどのような状況に立たされても、どのような状態に置かれたとしても、神はいつでも、いつまでも私たちと共にいてくださることを伝えます。
聖書はいいます、「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどのような被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできない(ローマ8:38-39)」と。
コロナウイルスも、人の罪も、悪も、そして死も、私たちの主イエス・キリストによって示された神さまの愛から、私たちを引き離すことも、引き裂くこともできません。
神さまは、このような現実のただ中でけなげに、懸命に生きる私たちに向かって今日、今、この時も働きかけ、語りかけてくださいます。「そばにいるよ、安心して、大丈夫だ、共に生きていこう」と。
神はいつでも、どこでも、いつまでもあなたと共におられます。この神さまの私たち一人ひとりに向けられている思い、深い憐れみ、限りない無償の愛は、この世界のただ中に与えられた、御子イエス・キリストによってはっきりとあらわされました。
今日の聖書箇所で、イエスさまはガリラヤのナザレという町から洗礼者ヨハネのもとに来たと記されてあります。
当時のガリラヤ地方には異邦人が多く移り住んでいたことから生粋のユダヤ人たちからは快く思われていない地域だったようです。ですから当時ガリラヤ出身ということだけで差別されたり、軽蔑されたりするようなことがあった。
イエスさまが、人生の多くの時間をガリラヤのナザレで過ごされたのは、神さまは異邦人も、ユダヤ人も関係なくすべての人をみ心に留めているということ。すべての人を分け隔てなく大切に思い、愛しているし、共にいるということです。
イエスさまが育ったナザレは、何か特別秀でたものがあるわけでもない、小さな小さな田舎町です。神さまのまなざしは、どんなに小さなものにも向けられているし、何か秀でたもの、特別優れたものだけが神さまのみ心に留められ、受け止められているわけじゃない。神さまにとって小さいとか大きいとか、高いとか低いとか、優れているとか劣っているとか関係ない。国も民族も、土地柄も家柄も、学歴も職歴も関係ない。神さまはすべての人をみ心に留め、すべての人にまなざしを向け、大切に思い、愛しておられる。
イエスさまは洗礼者ヨハネのもとに姿をあらわしました。洗礼者ヨハネのもとで罪を告白し、罪のゆるしを得るための洗礼を受けようと大勢の人々が集まってるそのただ中にイエスさまの姿があるのです。罪人たちが集まるただ中に、罪人と同じように、罪人と共におられるイエス・キリストの姿があります。
イエスさまは罪人たちと同じように洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。受ける必要のない罪のゆるしを得させる洗礼をイエスさまが受けることで、すべてを共にする神さまの思いがあらわされています。神は、罪人たちを、否、すべての人々を見捨てることも、見放すことも、見限ることもしない。
イエス・キリストは罪人たちの列に加わり、罪人たちと同じように川の水の中にその身を沈めました。イエス・キリストはご自身の身を低きところ、低きところへと置かれます。そしてキリストは死に至るまでもその身を置かれました。それは、人生のどん底を味わう者たち、もう自分では這い上がることのできないような者たちを受け止め、キリストが最後の、最後の受け皿となるということ。そして、すべての関わりから引き離され、引き裂かれたと思えるような死という、その出来事の中にもキリストは私たちと共におられるのだということです。
イエス・キリストは、異邦人たちと交わり、罪人たちの列に加わり、罪人と同じように洗礼を受け、罪人として十字架につけられました。私たち人間が交わることをしない、加わることもしない、同じようにすることもしない、一緒に居ることもできないところで、イエス・キリストは「あなたと共にいる」と宣言されるのです。
私たちの主イエス・キリストは、私たちと共にいて、私たちのすべての痛み、苦しみ、悲しみを共に背負い、私たちの限界、罪、孤独、そして死をも共に乗り越えることを望まれました。
なぜなら、あなたは神さまの愛する子、神さまのみ心にかなう者だからです。あなたは神さまにとって大切な、大切ないのちの存在だからです。誰だって愛するものと共にいたい。愛する者のそばに居たい。愛するものとすべてを乗り越えたい。
神は今あなたに伝えます、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。わたしはあなたと共にいる」と。
教会に集うことがかなわない、会いたい人と会うことができない、この悔しさや悲しさ、寂しさや辛さを、私たちといつでも、どんなときでも共にいてくださる主イエス・キリスト共に乗り越えて生きましょう。
私たちは、どんなに離れていても主イエス・キリストによって一つだということを忘れずに、互いを思いやり、共に祈り合っていきましょう。
そして、いまそばに居てくれる家族や仲間の存在の尊さ、大切さを心に留めて、互いのいのちを大切に、共に支え合い、共に愛し合い生きましょう。