顕現後第3主日 マルコによる福音書1:14~20
みなさん「ドラえもん」を知ってますよね。最近、私の息子たちはドラえもんが好きで、よくアニメを見ているものですから、僕も見ることがあるんです。
この前、ドラえもんの映画を見ていたときに流れた挿入歌で、素敵だなと思った歌がありました。こう歌いはじまるんです「神さまが地球を丸くしたのは みんながその手つないだとき 端っこが必ず出会えるように」と。
地球が丸いのは偶然でも何でもなくて、神さまの思いがそこにはあって、その神さまの思いとは、みんなが繋がり合うことができるため、みんなが繋がりあって生きていくために地球を丸くしたんだ、と歌うんです。この歌の歌詞がずっと心に残ったので皆さんに紹介したいと思いました。
誰もがみんな、生まれてから最後のときまで、支えたり支えられたり、助けたり助けられたり、頼ったり頼られたりする繋がりがなければ生きていけないでしょう。
だからみんな繋がり合い、連帯し合い、支え合い、愛し合い生きる世界、社会を望んでいるはずです。しかし、テレビやインターネットのニュースを見ると、人びとに影響力を持つ人物が、人びとの分断、分裂、対立を煽るような言葉を発して、その言葉に対して無批判で従い、対立する人々の姿を見ると、とても悲しい気持ちになります。
今日の聖書箇所は、「ヨハネが捕らえられた後」という言葉から始まります。なぜヨハネが捕らえられたかというと、時の権力者の正しいとは思えない行動に、否を突きつけたからです。時の権力者の傍若無人ぶりに目をつむることなく、声を上げ続け、抗い続けたからです。
聖書を読んでいる人はわかると思いますが、捕らえられたヨハネの最期は権力者のエゴと欲望むき出しの斬首という惨い最期でした。ヨハネは、人のいのちが蔑ろにされ、人びとの人権が疎かにされ、いのちの連帯が容易に引き裂かれてしまうような社会に否を突きつけ、欲望にまみれた権力者の姿勢に対して悔い改めの声を上げ続けたのです。
もしかすると私たちは、ヨハネが生きた時代は酷い社会だったんだな、恐ろしい時代だったんだな、と遠い昔話のように、また他人事のように思うのかもしれません。しかし、すこし考えてみれば、20世紀、ヒトラーという指導者の下でなされたホロコーストも、天皇を神として祭り上げてなされた戦争の悲劇も、一部の指導者、リーダーたちの発言や姿勢に対して、人びとが従い続けたことによる大惨事であったことを私たちは決して忘れてはならないでしょう。そして、いま世界で起きている悲しい現実を、「対岸の火事だ」、「他人事だ」として眺めているなら、取り返しのつかない出来事が私たちの身に降りかかってくるかもしれません。
ヨハネが捕らえられた後、イエスさまは声をあげて神の福音を宣言されました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。
「時は満ち」とイエスさまは言いました。この世界と私たち人間は、神さまが創られた「時」という枠組みの中で生かされています。神はその「時」という枠組みの中にイエス・キリストを通して入って来られました。
つまり神は、この世界の歴史のただ中にイエス・キリストを通してその身を置かれることで、私たちとの確かな繋がり、結びつき、関わりを示し、この世界と私たち一人ひとりのことを心に留め、心配り、心砕いているのだということを示すのです。
そして、イエス・キリストは「神の国は近づいた」と宣言されました。神はあなたの近くにいる。神はあなたと共にいる。神はこの世界を、そして私たち一人ひとりを見放すことも見捨てることもしない。神はあなたのこと他人事のように無関心であれない。神は私たちと繋がり、喜びも悲しみも連帯し、共に生きて支え、助け、守り、導かれることを宣言します。
そしてイエスさまは言います「悔い改めて福音を信じなさい」と。悔い改めるとは、考え方を改めるとか、自分の歩んでいる方向を転換する、という意味があります。
私たちは、この世界を創り、私たちにいのちを与え、私たちが生きるに必要なものをすべて与えてくださった神さまの思い、神さまの恵み、神の愛に背を向け、今あるこの世界のシステムや、指導者たちの考えや、社会の流れに考えなしに、無批判的に従うことをしていないだろうか。そして神さまの愛してやまないこの世界や、いのちあるものを傷つけ、大切な繋がりを引き離してしまうことや、引き裂くことになってしまっていないだろうか。今こそ、自分の考えを改め、歩んでいる方向を転換するときではないだろうか…。
神は私たちに呼びかけます「福音を信じなさい」と。神の言葉、神の思い、神の愛であるイエス・キリストを信じて、受け止め、神さまがイエス・キリストを通して示された歩むべき道を、キリストに従い、キリストと共に歩む、キリストと共に生きることを神さまは望んでおられます。
神さまがイエス・キリストによって私たちに示された歩むべき道は、支えたり支えられたり、助けたり助けられたり、頼ったり頼られたりする繋がりを大切にし、互いを思いやり、仕え合い、愛し合い歩んでいくこと。神さまと、そして神さまが繋ぎ合わせてくださった家族や友人、知人、隣人との関わりを大切にして生きていこうということです。
イエスさまは弟子たちをご自身のもとに招くとき、こう言いました「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と。「わたしについて来なさい」、共に歩んでいこう、共に生きていこうとイエスさまは呼びかけます。
そして「人間をとる漁師にしよう」と言われます。どうしてイエスさまは弟子たちを、人間をとる漁師にしようとされるのでしょう。そこには神さまが私という人間を、私たち人間を身許に引き寄せ、引き受け、受け止め、繋がり合うこと、共に生きていくことを強く、強く望んでいるというみ心があるからでしょう。
誰でも愛するものと繋がりたい、一緒に居たい、共に生きていきたいと思うはずです。
神さまのこの世界と私たち一人ひとりに向けられている尽きることもない、冷めることもない限りない無条件の愛はイエス・キリストによってはっきりと示されました。
私たちは、いつでも神さまの方に向き直り、福音を信じて、神さまが私たちとの繋がりのために与えてくださったイエス・キリストとの繋がりを大切にし、キリスト共に生きる者でありたい。
そして私たちはこれからも、この主イエス・キリストを中心としたつながりを大切にし、さらにキリストを中心とした繋がりが私たちの生きる地域に、社会に、世界にますます広がることを祈りつつ、互いに仕え合うこと、支え合うこと、助け合うことをしていきましょう。
私たちの主イエス・キリストは言われます「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と。
キリストを信じて、いつでも従い、どこまでもついて生きましょう。