顕現後第4主日 マルコによる福音書1:21~28
今日の福音書は、マルコによる福音書の中でイエスさまが最初に行われた奇跡が書かれています。
イエスさまは、ご自分の最初の奇跡をカファナウムの会堂で行なわれます。そして、その日は安息日でした。イエスさまは安息日に会堂で教えられ、その会堂にいる汚れた霊に取りつかれた男を癒されました。安息日に起こったこの奇跡は、イエスさまが公的な生涯の中で最初に行われた奇跡であり、このことは、マタイとルカによる福音書にも書かれています。このような観点からみると、私たちは共観福音書の著者たちが何を伝えようとしたのかが分かると思います。「イエスさまの最初の奇跡は、安息日に行われた。」これが共観福音書の著者たちが伝えたかったことだと思います。
なぜ、イエスさまは安息日にご自分の公的な生涯の最初の奇跡を行われたのでしょうか。神さまの創造を見ると、安息日は、神さまが定められたものだということが分かります。神さまは、最初の日に光と闇をお造りになってから、順々に万物を造らました。第六の日、最後に、私たち人間をお造りになり、第7の日に安息されました。そして、神さまは第七の日を祝福して、聖別されました。ところが、この安息日が、イエスさまの時には、元の意味とは違って認識されていたようです。今日の福音書が属しているマルコによる福音書2章27節で、イエスさまはこう言われます。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」この言葉は当時の安息日が安息日としての機能をしていなかったということを示すのだと思います。
今日の福音書は、イエスさまの最初の奇跡が起こった安息日について記録しています。何が起こったのか、一度考えてみましょう。まず、イエスさまの教えを聞いた人々が驚きました。22節の御言葉です。「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」「律法学者のようにではなく」という言葉は何を意味するのでしょうか。当時の律法学者も、神さまの言葉を教えるために訓練され、勉強した人です。しかし、彼らは律法よりは、主にミシュナという言い伝えを持って人々に言葉を教えたそうです。例えば、「有名なラビ誰々はこう言った」のようにです。しかし、イエスさまはそのように教えられませんでした。律法についてのご自分の考えや解釈で人々を教えられました。それで、人々はイエスさまの言葉を権威ある言葉として受け入れました。そして普通、教え、説教などには、自分の意図が入っているものです。律法学者も自分の教えの根拠を律法に置いていたと思いますが、彼らの解釈は、100%神さまと人々に焦点を合わせてはいなかったでしょう。しかし、教えの中心が神さまと人々にあるイエスさまの教えは、聞いている人にとって権威ある言葉として聞こえたと思います。安息日に権威ある言葉が人々に聞こえ、その言葉は、人々を驚かせました。イエスさまの言葉によって安息日が回復されたのです。
二番目に、イエスさまは安息日に汚れた霊に取りつかれた男を癒されました。今日の福音書24節には、汚れた霊がイエスさまに叫ぶ場面が書かれています。汚れた霊はイエスさまにこう言います。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」この汚れた霊の言葉を読んでみると、まるでイエスさまが理由なく、自分たちを攻めて、自分たちを滅ぼすに来たという印象を与えます。そして、聖なる神の子が汚れた霊のことに、なぜ立ち入るかというのが彼らの主張です。しかし、彼らの言葉には、欺きが入っています。世の中で神さまの支配が及ばないところ、神さまと関係のないところはないからです。イエスさまがこの世に来られた理由も、神さまがこの世を愛されるからです。そして、汚れた霊が取りつかれた人も、神さまが愛される人です。さらに、汚れた霊は、神さまが聖別された安息日に、会堂の中でいます。それにもかかわらず、汚れた霊は、自分が被害者のように、自分のことが神さまと関係のないことのように言います。神さまと関係ないことは、一つもありません。神さまがこの小さいこと、この汚いことまでも関心を寄せられるか。神様が私のように小さくて弱い者を愛してくださるのか。このような考え方は、絶対に良い思いではなく、神さまから来た考え方でもありません。どんなに小さなこと、どんなに小さな者だとしても、神さまと関係があり、神の愛の中にいる者です。むしろ、神さまはそのような小さなこと、小さな人々のために、イエスさまをこの世に送られました。汚れた霊に欺かれてはなりません。
また、汚れた霊はイエスさまに「我々を滅ぼしに来たのか」と聞きます。当時のユダヤ人たちは、すべての悪は、神さまの裁きの日に滅ぼされると思っていました。このような考え方は、初代教会のクリスチャンたちにも影響を与えました。だから、私たちもこの世のすべての悪は、終末の日に裁かれると思います。ところが、この考えには悪魔が植えた一つの欺きがあります。それは、神さまが最後の日に悪を裁くと言われ、私たちがすべての悪と戦うことができないから、悪と共に生き、時を待とうという人間的な考えです。一見、この考え方は、合理的に見えます。私たちは、すべての悪と戦うことはできません。私たちが悪と戦い、傷つくことより、全能の神さまが悪を裁かれるのを待っている方が良さそうです。しかし、このような考えは、悪魔のごまかしです。イエスさまがこの世に来られて、私たちを救ってくださったというのは、悪魔に対する裁きが始まったということだからです。イエスさまは、この救いと裁きを伝えるために、父と子と聖霊の御名によって私たちに洗礼を授け、ご自分の弟子とされました。そして、私たちは、この世に派遣されました。キリストの弟子として悪と戦うこと。これも、私たちがイエスさまに与えられた使命だと思います。最後の日に行われる悪の裁きを待っていること、悪とともに生きるしかないという考え方は、むしろ福音的な考えではありません。それで、イエスさまも汚れた霊の話を聞かなかったのだと思います。イエスさまは汚れた霊をお叱りになり、その人から出て行けと命じられました。すると汚れた霊は、イエスさまの命令によって、その人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行きました。人々はこれを見て、権威ある新しい教えだと言いました。
イエスさまは、ご自分の公的な生涯の最初の奇跡を神さまの言葉が読まれて宣言される会堂で起こされました。その日は安息日であり、その安息日に汚れた霊に取りつかれた人を癒されました。安息日と同じでありませんが、私たちにも、神さまの言葉が読まれて宣言され、私たちの主であられるイエスさまと会える日があります。その日は、私たちが礼拝をささげる日、まさに主日です。私たちにとって主日は祝福された日であり、聖別された日です。たとえ今は、私たちが集まることができずに、このようにオンラインで礼拝をささげていますが、この礼拝を通しても、主は、私たちがいるところに共におられます。そして、神さまの言葉によって私たちを祝福し、私たちの霊を回復させてくださいます。だから主日は、私たちにとって良き日であり、期待される日です。多くの教会の学者たちは、コロナ以降、礼拝の変化があると言います。外形的な変化はあるかもしれません。しかし、神さまは私たちのすべてのことを回復させてくださり、礼拝を通して、私たちに権威ある新しい教えを与えてくださるのです。イエスさまが私たちの礼拝の日を回復させてくださいますように。自由に集まって喜びながら礼拝をささげる日が速やかにきますように、主の御名によって祈ります。アーメン