思いをカタチにして

四旬節第1主日 マルコによる福音書1:9~15

 先週、ある絵本を買いました。原作はアフガニスタンで書かれた絵本なのですが、絵本の主人公は中村哲さんなのです。みなさんの記憶にも新しいと思いますが、中村哲さんは2019年12月4日にアフガニスタンで銃撃に遭われ、亡くなられました。中村哲さんは35年間にわたり、アフガニスタンやパキスタンで病気や貧困、水不足に悩む人々を救い続けたお医者さんです。
 無私の精神で人々を助け続けた中村哲さんの思いと功績を、アフガニスタンの子どもたちに伝えるために絵本が書かれたということを聞いて、その日本語版を手に入れて読みました。
 絵本の終わりに、絵本作成に関わったアフガニスタンの方が言っていた言葉が記されてありました。彼らはこう言います。「中村先生のおかげで約65万ものアフガニスタン人がより平和に暮らせるようになった。あと50人の中村先生がいればアフガニスタンの人口約3000万人全員が平和に暮らせるようになる」「無私の精神で、遠く離れた国の人のために尽くされた中村先生は、とても尊敬できる人。アフガニスタンの子どもたち、とくに男の子にとってのヒーローといえば、国を守るために戦った人たちだけど、次の世代を担う子どもたちにとって、中村先生のような人が新しいヒーローになってもらいたい」。
 病気や貧困、水不足で悩む人々を救い続けた中村哲さんの無私の精神を築き上げたその土台には聖書があったと聞きます。神の言葉、イエス・キリストが中村さんの精神の土台であった、基であったのです。つまりこう言うことができるのではないでしょうか。神さまの思いを受け止めた中村さんは、神さまの思いをカタチにしていった。そしてその中村さんの思いを今度はアフガニスタンの人々が絵本というカタチにして子どもたちに伝え、届け、知らせていくことになった。すべては、懸命に、けなげに、生きる人びとの平安、平和、救いのために。
 神さまは、この世界と、私たち一人ひとりに向けられている思いと、限りない無償の愛とを、聖書のみ言葉と、御子イエス・キリストを通してはっきりとあらわし、今日もこうして私たちに語りかけ、働きかけています。
 今日の福音書でイエスさまは、人びとが罪を告白し、洗礼に与るその列に同じように加わり、人びとと同じように洗礼を受けています。それは、神さまが私たち人間との固く、強く、確かな繋がり、関わり、交わりを持つことを求め、共に生きることを望んでいるからです。
 誰でも、愛してやまない存在との確かな繋がり、関わり、交わりを強く求めると思います。愛するあの人と共に生きたいと切に願い、望み、祈ると思います。他人が、あいつは罪人だと言おうが、民族や、宗教、性別、肌の色を何と言おうが、関係ない。自分が、その人を愛してやまないんだ、という思いを大切にして、愛してやまないその人と共に生きることを選ぶのではないでしょか。それが我が子であればなおのことではないかと思うのです。
 神さまは、人びとと同じように洗礼を受けたイエスさまに言います「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」なんだと。イエス・キリストは、まさしく神さまの愛そのものであり、神さまの心そのものです。神さまの私たちに一人ひとりに向けられている思いと、限りない無償の愛とがイエス・キリストというカタチをとってはっきりと、くっきりと、しっかりとあらわされたのです。ですから、神さまの「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というイエスさまに向けられた言葉は、そっくりそのまま私たち人ひとりに向けられている言葉なのだということができるし、そっくりそのまま受け止めることのできる言葉なのです。神さまはご自身の思いを聖書のみ言葉と、イエス・キリストを通してこの世界にはっきりと示し、私たちに伝えます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」なのだ。だから、決して見捨てない。大丈夫。安心して。共にいると。
 福音書は、神さまの霊が、イエスさまを荒れ野へと送りだし、イエスさまは40日間そこにとどまり、サタンからの誘惑を受けたのだといいます。
 ユダヤ人であれば、また聖書を読んだことのある人であれば、「荒れ野」という言葉と「40」という言葉を聞いて連想するのは、「出エジプト(出エジプト記)」の出来事でしょう。神さまが、モーセというリーダーを立て、エジプトで奴隷状態にあったユダヤ人たちを解放し、エジプトから逃れ、荒れ野で40年間さまよい、約束の地に導いたという出来事です。または、預言者エリヤの身に起きた出来事(列王記上19:1~)を思い出すかもしれません。命を狙われた預言者エリヤは、荒れ野に逃れ、生きる気力を無くすのですが、神さまのみ使いによって助けられ、力づけられ、40日40夜歩き続け、神の山にたどり着いた、という出来事です。
 聖書のいう「40」という数字は、「一世代が過ぎる時間や、人生の長さ」を象徴するものでもある、といわれます。想像してみてください。自分の人生が荒れ野の中にあるような人生であったならどうだろうかと。私だったらおそらく、否、間違いなく、ユダヤの人々と同じように不平不満を神さまにこぼしているだろうと思いますし、エリヤと同じように「命が絶えるのを願って(列王記上19:4)」いるかもしれません。
 ユダヤの人々が経験した荒れ野での出来事も、預言者エリヤが経験した荒れ野での出来事も本当に辛く、苦しいものであったと思います。ただ、どちらの出来事も、神さまは決して見捨てることなく、共にいて、支え、導き、救われたのだということが、聖書が伝えたいことであり、今を生きる私たちに伝えたいこと、届けたいことなのです。
 イエス・キリストが神の霊によって荒れ野に送られ、40日間そこで過ごされたという出来事にあらわされる、神さまの思いは、私たちの人生が荒れ野の中を生きるような状況、状態にあっても神さまは決して見捨てることなく、私たちと共にいるということです。神さまは、あなたの人生の同伴者としてイエス・キリストを与え、あなたの人生を共に歩み、たとえ荒れ野のような状況にあっても決して見捨てず、あなたと共にいる。あなたは決して一人じゃない、ということを伝えたいのです。
イエスさまは、荒れ野での出来事の後に、神さまのみ心と愛とを公に宣べ伝えていくのですが、それは洗礼者ヨハネが、世の権力者に捕らえられた後であったと聖書はいいます。
 権力者の圧政、厳しい搾取があり、人のいのちが乏しめられ、人権が蔑まれ、弱い者たちが社会の周縁に追いやられていくそのような世界に対して、イエス・キリストは神さまのみ心を、声を大にして伝え、神さまの愛を、全身全霊をもってあらわしたのです。
 神さまがイエス・キリストを通してあらわされたみ心と、愛とは、聖書のみ言葉を通して、そしてこのキリストの教会を通して、今を生きる私たちにもはっきりと示され、伝えられ、届けられています。
 聖書のみことばを基として、神さまの愛と、み心を土台として中村哲さんは、35年間アフガニスタンの荒れ果てた大地に立ち、人びとのいのちのために、平和のために尽くされました。そしてアフガニスタンの人々は、今は亡き中村哲さんの功績と思いとを絵本というカタチにして子どもたちに伝えて、平和な世界を築き上げていこうとしています。
 キリストの教会は、そしてそこに連なる私たち一人ひとりは、イエス・キリストによってあらわされた神さまのみ心と、限りない無償の愛とを、いろんなカタチを通して人びとに届けていきたいです。神さまのみ心と、無償の愛とをどのようなカタチであってもいいから次の世代の人々に、子どもたちに渡していきたい、届けていきたい、伝えていきたいです。
 神さまは今日も私たちに伝えます「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」だと。
 私たちは、神さまの思いと、愛とを自分なりのカタチで家族や、友人、知人に届けて生きたいです。