四旬節第2主日 マルコによる福音書8:31~38
旧約聖書のイザヤ書55章8~9節にはこのように書かれています。
「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」
すべてのことがそうではありませんが、時には、神は人の考えとは違う方向にこの世を導いておられると思います。おそらくそのような道は、私たちの思いでは理解できず、受け入れにくい道になるかもしれません。しかし、神さまはご自分の民たちがその道に従うように願われ、導いておられます。このような神さまの導きに応じて、その道に行くこと、私はこのことが信仰だと思います。
今日の福音書でも、このような過程が書かれています。
イエスさまは、ご自分を弟子たちが何を求めなければならないのかを教えてくださいます。そのことは、人の思いや計画ではなく、神さまの御心に従うことです。しかし、今日の福音書は、弟子たちがそのようにしなかったと言います。だから弟子たちとペトロは、イエス様に叱られ、人のことを思ってはならないと言われます。ところが、私の考えでは、弟子たちにとってちょっと悔しい面がないわけではないと思います。なぜなら、当時のユダヤ社会が願っていたメシアは、イエスさまのようなメシアではなかったからです。当時の人々が願っていたメシアは、旧約聖書のマラキ書に書かれているエリヤのようなメシアでした。神さまから与えられた力で敵を退け、神さまの義である律法によってこの世を治める強いメシアでした。洗礼者ヨハネもそのようなタイプの人だったので、人々は、強いメシアが来ることを期待していました。そして、イエスさまが公的な活動を始められたとき、人々は、特に弟子たちは、イエスさまがそのようなメシアになることを望んだと思います。神さまの国をこの世に立てられる大きな力を持っているメシア、そしてその力によって、この世を治めるメシアを弟子たちは望んでいました。それで、イエスさまがご自分の苦難と死について弟子たちにおっしゃったとき、ペトロがイエスさまをわきへお連れして、いさめ始めたのです。
ですが、私はイエスさまも、ペトロのいさめた理由について知っておられたと思います。
イエスさまも彼と同じ時代に生きられましたので、人々が願っているメシアについて知っておられたでしょう。ところが、イエスさまは、ペトロのいさめについて強くお叱りになりました。そしてこのお叱りは、ペトロだけでなく、弟子たちに向かっているものでもありました。今日の福音書33節には、このように書かれています。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
なぜイエスさまは、当時のメシアの思想について知っておられるにも関わらず、ペトロにそのように強くお叱りになったのでしょうか。本当にペトロの心にサタンが入ったのではないでしょうか。ある人は、イエスさまのお叱りが厳しすぎたのは、ペトロのいさめが死と贖いについてのイエスさまの心を揺らぎ動かしたからだと言います。ある人は、ペトロのいさめの中には、サタンの計略が隠れていたと言います。だからイエスさまはペトロに、「サタン、引き下がれ」と言われたと言います。私もイエスさまのお叱りは厳しすぎた面があると思います。しかし、イエスさまは、このような理由によって、ペトロを強く叱られたとは思いません。
32節に見ると、イエスさまは「そのことをはっきりとお話しになった」と書かれています。
ここで「はっきりと」という言葉は、原語で「パルレシア」という言葉です。この言葉は、「丸出しにする、明らかにする」という意味です。イエスさまは弟子たちに、初めてご自分の苦難と死について明らかに言われたのです。つまり、イエスさまは弟子たちに、ご自分が行かれる道を明らかに言われることによって、彼らを弟子の深化の過程に導かれたのです。この時の前まで弟子たちは、イエスさまに真面目に従っていましたが、真の弟子の道には、入っていなかったと思います。弟子たちは当時の他の人々のように、イエスさまをエリヤのようなメシアとして思い、イエスさまが王になると、自分たちは高い地位を得られるのだと思っていました。しかし、これは、イエスさまが行かれる道とは全く違う道でした。したがって、イエスさまは彼らを弟子の深化の過程に入らせるために、何が神のことで、何が人間のことかを教えられる必要がありました。それでイエスさまは、ペトロに「サタン」と言われたと思います。これはペトロに、サタンが入ったり、ぺトロのいさめによってイエスさまの心が揺れたりしたのではなく、当時の弟子が考えていたのは、サタンの考えとも同じだという意味として強く言われたのです。少なくとも、弟子の深化の過程に入る彼らは、神さまのことと人間のこととを区別しなければならなかったと思います。
イエスさまは35節でこのように言われます。
「自分の命を救いたいと思っている者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
命というものは、時代を問わず、人間にとって最も大事なものです。命を救いたいと思っているのは、人間の本能に近いものであり、命を救おうとすることが正しくないことではありません。しかし、弟子たちにとってこの命というものは、一般の考え方で解釈してはならないものだと思います。この世の人々が求めているように、自分の命を救いたいと思ってはいけません。その命がすべてであり、私たちに最も大事なもののようですが、この世での命は、明確に限りがあります。創世記3章の言葉のように、塵にすぎない私たちは塵に返えるからです。そのため、この世での命にすべてをかけてはいけないと思います。私たちが永遠に生きる場所は、この場所ではないからです。イエスさま、福音、天の国、真の命はこれらから出て来るのです。
子供を育てながら、親のことについて深く理解していくと思います。
まだすべてを知っているのではありませんが、ますます深く分かるようになります。そして瞬間瞬間、私を育てた親の心が分かるようになります。信仰の道も同じではないでしょうか。今は理解できないことも、信仰の道を歩いているうちに、深くよく分かるようになるでしょう。そしていつか、私たちにとってこの信仰は、命のようなものになるでしょう。今の私たちには、神さまのことよりも人間のことがより大事なものかもしれません。それとも、人間のことを計画して、これが神さまのことだろうと勘違いすることもあります。しかし、心配しないでください。神さまはこのような私たちを導いて、ご自分の道に行かせてくださるからです。この神さまの導きが私たちと共にありますように。誘惑の瞬間の中でも、神さまのことを選ぶ私たちになりますように、主の御名によって祈ります。アーメン