ハートに火をつけて

四旬節第3主日 ヨハネによる福音書2:13~22

 みなさん、東京オリンピック・パラリンピック楽しみですか?政府はどうにかして開催しようとしているようですが、どのようになるのでしょうか。
少し前に、オリンピック・パラリンピック大会組織委員会会長の女性蔑視発言があり、内外からオリンピック憲章に反する発言だと猛烈な批判が出ました。オリンピック憲章には「いかなる種類の差別を受けることなく」と謳っていますから批判があがるのも当然です。オリンピック・パラリンピックはすべての人のものです。国、民族、宗教、性別、肌の色などに関係なくすべての人のものであり、一部の人のものになってはいけないわけです。
オリンピック・パラリンピックにかぎらず、この世界、社会、もちろんキリストの教会も、「いかなる種類の差別を受けることなく」、あるがままで受け入れられ、だれ一人取り残されてはいけない、ということを私たちはいつも心がけ、大切にしていく必要があると思います。
イエスさまは言いました、「父(神)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも、正しくない者にも雨を降らせてくださる(マタイ5:45)」と。
神さまはすべての人をみ心に留め、受け止め、分け隔てをしない。すべての人の上に恵みの雨を降らせ、あたたかな日差しを与えてくださっている。そして、誰か一部の人のためにではなく、すべての人の平安のため、すべての人の希望のため、すべての人の救いのためにみ子イエス・キリストのいのちをも差し出し、喜びの知らせ、福音を与えてくださいました。
キリストの教会が約2000年間宣べ伝えてきた、イエス・キリストの十字架と復活の出来事、そこにあらわされた神さまの限りない無償の愛は、一部の民族や、宗教、性別の人に向けられてるのではありません。すべての人に向けられているのです。
今日の福音書は「ユダヤ人の過越し祭」という言葉から始まります。過越し祭とは、旧約聖書の出エジプト記にあります、エジプトで奴隷状態にあったユダヤ人たちを神さまが救いだし、約束の地まで導いてくださったことを思い起こし、追体験し、盛大にお祝いするお祭りです。
過越し祭を祝うために、いたるところからユダヤ人がエルサレムの神殿に集まっていました。神殿とはその名の通り神さまがおられるところ、神さまの臨在が示される場所だと理解されていましたから、祝祭のときには大勢のユダヤ人が集まったわけです。過越し祭などの大きなお祭りの期間中にエルサレムに集まるユダヤ人の数はおおよそで270万人だったそうです。余談ですが、大宮の氷川神社には正月三が日の初詣には約200万人が訪れるそうです。
エルサレムの神殿に集まったユダヤ人は犠牲の動物をささげたり、お金をささげていました。遠い国や町からエルサレムに来るユダヤ人は犠牲の動物を持ってくることは困難ですから境内で売っている動物を買うわけです。また神殿にささげられるお金はユダヤの貨幣のみであったので外国のお金は両替する必要があったわけです。とにかく、ものすごいお金がエルサレムの神殿に集まっていたことに間違いないでしょう。
神殿周りでの動物の売り買いや、お金の両替は祭司たちの公の許可が必要であったようです。神殿は祭儀の中心であるばかりでなく政治権力や経済活動の中心でもあったわけです。そこでは公にできないような不正、不都合な真実というものがあったのかもしれません。
神殿で、つまり神さまの臨在を示す場での不正や、神殿礼拝の形骸化、そして特権階級がつくりだす差別や格差が生じていることに、たった一人で「否」を突きつける存在が現れます。それがイエスさまです。
イエスさまは、神さまのこの世界と私たち一人ひとりに向けられている熱いハートそのものであり、限りない無償の愛そのものです。
過越し祭というユダヤ人にとって重要な、そして多くの人々が集まる神殿でイエスさまは大暴れします。イエスさまは、政治や宗教の指導者たちがつくりだした制度や構造、私たち人間がつくりだしてしまう階級や差別や格差を根底からグラグラと揺さぶるのです。
当然、ユダヤ人たちはイエスさまに「あなたはこんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」と問い詰めます。その問いに対してイエスさまは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる。」と答えました。このときイエスさまが言った「神殿」とはイエスさまご自身の体のことだと聖書はいいます。
何度もいいますが「神殿」とは神さまの臨在を示す場です。エルサレムの神殿では、大祭司のみが至聖所と言われる神殿の中心に、つまり神さまに最も近づくことがゆるされていました。しかし神はイエス・キリストを通して最も貧しく、弱く、罪深い者たちの傍に近づき、誰からも見向きもされないような小さき者たちにも寄り添い、み心に留めていること、共にいること、愛していることをはっきりと示されたのです。
イエスさまは女性にも子どもたちにも神さまの深い愛を示されましたし、病の人、体が不自由な人にも真剣に向き合いましたし、異邦人にも、そして罪人と言われる者たちにも神さまの深い憐れみと、ゆるしとを示されました。
そして神さまは、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通してこの世界と私たち一人ひとりに向けられている深い憐れみと、限りない無償の愛とゆるしと、救いとをはっきりとあらわされたのです。
「ユダヤ人の過越し祭」は、ユダヤ人だけが神さまの救いの御業を思い起こし、祝い、賛美するものでありました。しかしイエス・キリストによる神さまの救いの御業は一部の人のものではないし、「いかなる種類の差別」もないし、一つの民族、宗教や性別に限られたものではありません。イエス・キリストは、ユダヤ人のキリスト、日本人のキリスト、韓国人のキリスト、すべての人のキリストだ、ということができるし、もっと積極的に言って「私のキリストだ」と、誰もがそう大胆に告白することができるのです。
復活の主イエス・キリストに出会った弟子たちは、イエス・キリストを通して示された神さまの熱いハートと、限りない愛と、永遠のいのちの約束に心を燃やされ、すべての人にイエス・キリストの福音を伝えていきました。
神さまは、今日も、そしてこれからも聖書のみ言葉を通して、キリストの体である教会を通して熱い思いと、限りない無償の愛の福音をすべての人に宣言しつづけます。
キリストの教会は、そしてそこに連なる私たちは、オリンピック憲章ならぬキリスト憲章に、否、キリストの福音に聞き従い、誰もが「いかなる種類の差別を受けることなく」あるがままで受け入れられ、だれ一人として取り残されない社会、世界の実現のために神さまのみ心と愛とを伝え、届け、証し続けるものでありたいです。
私たちは、神さまがイエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して示してくださった私たちへの熱い思い、限りない無償の愛、永遠のいのちの約束を、いつでも思いを越して、自分らしく、あるがままで活き活きと、伸び伸びと、穏やかな心持で与えられたいのちを大切に、与えられた人との繋がりを大切に、キリストの交わりを大切に生きていきましょう。