四旬節第4主日 ヨハネによる福音書3:14~21
みなさん、コロナウイルス感染拡大によっていろんなものを家に宅配してもらうという機会が多くなったのではないでしょうか。
先日、クロネコヤマトの宅急便のロゴマークが64年ぶりに変わる、というニュースを聞きました。誰もが目にしたことのある有名なロゴマークだと思います。親猫が子猫を大事にくわえて運んでいるマークです。あのロゴマークには、お客様のお荷物をやさしく、ていねいに取り扱い運びます、という意味があるそうです。
クロネコヤマト宅急便の生みの親である小倉昌男さんはクリスチャンです。「サービスが先、利益は後」という企業理念で消費者の立場に徹底的に立ち成功を収めました。もちろん、その成功の裏には並々ならぬ苦労があったということは言うまでもありません。
小倉さんは、ちいさいなときに母親を結核で亡くしています。そして大学生の時には継母を結核で亡くし、そしてご自身も肺結核に罹り肺の手術をされたそうです。その入院生活の時に聖書に出会い、イエス・キリストを信じてクリスチャンになったそうです。
親猫が子猫を大事にくわえて運ぶロゴマークには、荷物を大事に、ていねいに、やさしく運ぶという意味がある。ただ、小倉さんはあのロゴマークにもう一つの意味を見ていたようです。それはキリストの福音です。神さまがイエス・キリストによって、私たちを大事に、やさしく、ていねいに運んでくれるという神さまから私たちへの愛と、恵みの福音を、親猫が子猫を大事にくわえて運ぶあのロゴマークに見ていたそうです。
神さまがイエス・キリストを通して私たちを大事に、ていねいに、やさしくご自身のもとに運んでくださる。だから子どもである私たちは神さまを信じて、すべてをゆだねて、すべてをまかせて、安心して生きればいい。
イエス・キリストがこの世界に与えられたのは、私たちが徳を積んだ、修行を積んだ、献金を積んだからでも、聖く、正しく、美しいからでもなんでもありません。イエス・キリストがこの世界に与えられたのは、神さまがこの世界を、私たち一人ひとりを愛してやまないから、この一点だけです。
イエス・キリストは、一点の欠けも、破れも、曇りもない圧倒的で、徹底的な神さまの限りない無償の愛そのものです。私たちはただただ感謝して、信じて、神さまの愛を受け取ればいい。私たちは、神さまの愛であるイエス・キリストを信じて救われ、永遠のいのちの約束にあずかる者となり、まかせて安心して生きればいいんです。
今日の福音書の箇所でイエスさまは言います「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない(14節)」と。
モーセが荒れ野で蛇を上げた出来事は、旧約聖書の民数記21章4節からのところに記されてます。短く説明すると、神さまはエジプトで奴隷状態にあったユダヤ人たちを、モーセという人を用いて救い出しました。奴隷状態から解放されたユダヤ人たちは約束の地に向かう途中の荒れ野で神さまに不平不満をこぼし、背いてしまいます。その背きに対して神さまは死を与えるという厳しい対応をとりました。しかし、ユダヤの人々が悔い改めると、再び神さまは深い憐れみをもってモーセに指示を出し救われた、という出来事が記されてあります。
モーセがユダヤの人々を救うために荒れ野で上げた蛇とは、青銅でつくった蛇でした。イエスさまは同じように人々を救うためには、ご自身も上げられなければならないのだ、と言うんです。
まず当然のことですが、上の方にいたままでは上げられるなんてことはできないわけですから、上げられるためには、まず下らなければならいわけです。聖書は言います「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(フィリピ2:6~)」。
イエス・キリストは上げられるために、つまり私たちの救いのためにとことんへりくだった。それも十字架の死に至るまでもへりくだった、と聖書は言うんです。そして徹底的にとことんへりくだったイエス・キリストが人々の手によってあげられたのは十字架でした。
イエスさまはどうしてそこまでするのか。どうしてこの世界と私たちの救いのためにそこまでしてくださるのか。聖書は答えます「神は、その独り子をお与えになるほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである(16節)」と。
神さまは私たちのことを救う気満々、永遠のいのちを与える気満々なんです。愛する、かけがえのないわが子をどうにかして助けたい、救いたい、いのちを与えて共に生きていきたいと思う、これが親心ならぬ、神心です。そして、神さまは思うだけでなく、イエス・キリストによって行動を起こし、この世界と、私たち一人ひとりにご自身の思いと、限りない無償の愛とをはっきりと示されたのです。しかし残念ながら「人々は光よりも闇の方を好んだ(19節)」と聖書は言います。人々が闇をこのみ、闇を選んだその思いが具体的に目に見える形で表されたのがイエス・キリストの十字架でしょう。
キリストの十字架はまさにこの世の闇、私たち人間のもつ闇そのものです。イエスさまが、神さまの愛を示し、真実で、正しいことをどれだけ訴えても、どれほど具体的に示しても、人びとはイエスさまを十字架に磔にしてしまう。このような世界、社会、人間の姿を闇であると聖書は言うのです。自分のエゴと欲望のために何の罪のないものを、闇に葬り去ろうとする社会や、人間の姿は、まさしく闇そのものだといえるでしょう。
しかし、神さまはこの世界を、そして私たちを救うこと、いのちへと導くことを決してあきらめないし、見放さないし、見限らない。
私たちが闇ではなく光の中を歩むように、偽りではなく真実の中を歩むように、滅びではなく神さまの永遠のいのちの中で生きるように、イエス・キリストを通して、み言葉を通して、キリストの教会を通して、語りかけ、働きかけ、導かれるのです。
神さまは、闇の中に生きるすべてのものをキリストの光のもとへと招いています。神さまの限りない愛と、ゆるしと、永遠のいのちの約束のもとへと招いています。神さまはいつでも私たちを、このようして神さまのみ言葉のもとに、キリストのもとに導き、光の中を歩むようにと絶えず招いてくださり、導き、共に生きようとされるのです。
聖書は言います「真理を行う者は、光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために(21節)」と。
私たちが真理を行うのも、光の方に来るのも神さまの支え、助け、導きがあるからだと聖書はいうんです。私たちはみんな、誰一人例外なく神さまに招かれ、導かれ、生かされてここにいる。
神さまは、私たちのいのちのために、救のために、み子イエス・キリストを与えてくださり、限りない無償の愛を示してくださいました。神さまは、私たちがキリストのいのちとそこに示された限りない愛を自分のものとして受け取り、光のもとに来る者、真理を行う者、愛に生きる者であるようにといつでも私たちを招き、導いています。
私たちは、神さまの愛と、ゆるしと、永遠のいのちの約束を信じて、すべてをゆだねて、すべてをまかせて安心して、キリストと共に真実を行うものとしてこれからも導きつづけもらいましょう。
そして、キリストの福音をいつも心に携えて、親猫が子猫を大事に大事にくわえて運ぶように、お互いのいのちを大切に、ていねいに、優しく扱い合い、いたわり合いながら、助け合いながら、祈り合いながら共に生きてキリストの愛を証ししていく私たち一人ひとりでありたい、キリストの教会でありたい。