なつめやしの枝とロバの子、そして十字架

四旬節第6主日(パーム・サンデー) ヨハネによる福音書12:12~16

 今日は四旬節第6主日として四旬節の最後の主日です。教会暦に従って、今日の福音書は、イエスさまのエルサレム入城に合わせられています。そして、イエスさまがエルサレムに入城なさったときに、大勢の群衆がなつめやしの枝を持ってイエスさまを歓迎したので、今日をパーム・サンデー、枝の主日と呼ぶこともあります。(写真)今、皆さんがご覧になっているものがなつめやしの枝の写真です。歓迎の道具としてふさわしく見えるでしょう。しかし、イエスさまの場合は、この枝が歓迎のためだけに使われたのではありませんでした。イエスさまの歓迎にこのなつめやしの枝が使用された理由があります。イスラエルでのなつめやしは、多産と祝福の象徴でした。詩編92編13節には、「神に従う人はなつめやしのように茂り、レバノンの杉のようにそびえます」と書かれています。また、エルサレム神殿の壁全体になつめやしを浮き彫りにするほど、イスラエルでなつめやしは貴重なものと思われていました。それで、イエスさまの歓迎にこのなつめやしの枝が使われたのだと思います。
 そして、イエスさまの歓迎になつめやしの枝が使われた特別な理由がもう一つあります。聖書には書かれていませんが、イスラエルではハヌカーという祝日があります。この祝日は、旧約聖書の時代と新約聖書の時代の間にできた祝日です。当時のイスラエルは、ギリシャの支配を受けていました。新しいギリシャ王としてアンティオコス4世エピファネスが即位すると、彼は王権を強化するため、イスラエルにギリシャの文化と宗教に従うことを要求しました。イスラエルがこれを断ると、アンティオコス4世エピファネスは、エルサレムの神殿にゼウス像を建てて、安息日と割礼を禁止し、自分を神として崇めることを強制しました。ちなみに、この王の名前のエピファネスは、神の顕現という意味です。

 このことに対してユダヤ人は反旗を翻して戦を起こしました。反旗の中心には、祭司マタティアと彼の息子たちがいました。彼の息子の中では、ユダという息子が最も勇猛で、父マタティアが死んだ後、ユダは戦争を勝利に導きました。それで、この戦争の名を、ユダの別名であるマカバイ(鉄槌)から取って、マカバイ戦争と言います。彼が戦場から勝利して帰ってきたとき、人々は彼を歓迎するため、なつめやしの枝を振り、再び神殿を神さまに奉献することができたという意味でハヌカ(奉献)という祝日を創設し守り始めました。さて、今日の福音書でも大勢の群衆がイエスさまのエルサレム入城を歓迎して、なつめやしの枝を振っています。なぜ彼らは、イエスさまを歓迎してなつめやしの枝を振ったのでしょうか。おそらくイエスさまを見ながら、ユダマカバイを思い出したのではないでしょうか。

 しかし、当時のユダヤ人たちが待っていたメシアとイエスさまは全く違いました。ユダヤ人のメシアは、いつもユダヤ民族だけのメシアでした。彼らは自分たちの神さまが送ってくださるメシア、イスラエルを苦難から救って、強く豊かにしてくれるメシアを望んでいました。多分当時のすべての国が、そして今の私たちも、そのようなメシアを望んでいるのかもしれません。強く豊かな国々の王たちは、自分自身を神や神の子と称しており、人々はそのような王たちのために喜んで自分たちだけのなつめやしの枝を持って歓迎しました。考えてみてください。帝国を成し遂げたり、成し遂げようと思っていた国々は、自分たちの王を神にして、神になった強い王を立てて力を振るいました。イエスさまの時代のイスラエルも、このような熱望を持っていたのだと思います。だから、彼らはなつめやしの枝を持ち、イエスさまの入城を歓迎したのです。今日の福音書13節の言葉です。「なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、呼び続けた。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。』」

 しかし、イエスさまは、ユダヤ人たちが待っていた王として来られたのではありません。もちろん、イエスさまも救いについておっしゃいましたが、彼らが望んでいた救いではありませんでした。イエスさまの救いは、人々の欲望を満たしてくれる救いではありませんでした。むしろ欲望を捨てなければ、救いを得ることはできませんでした。だからイエスさまは、彼らの前にロバの子に乗って来られたのだと思います。この世の王はロバの子に乗りません。しかし、イエスさまはロバの子にお乗りになりました。旧約聖書の預言者の預言に従って、自分の欲望のためになつめやしを持っていた彼らの前で、謙遜な王としてロバの子に乗られたのです。そして、エルサレムに向かって、十字に向かって行かれました。なつめやしの枝に背いて、十字架に向かって行かれたのです。そして、その十字架で人々の罪と欲望、偽りと利己心のために死なれました。イザヤ書53章5節にこう書かれています。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

 多くの人々は、自分たちの前に自分たちが歓迎するほどの対象が現れることを望んでいます。自分のために何かをしてくれる王、自分たちの苦難を解決してくれるメシアを待っているのです。イエスさまに従っていた弟子たちも同じだったと思います。彼らも自分たちの問題や状況を解決してくれるメシアを待っていました。そして、イエスさまに召され、エルサレムに向かっていく途中、自分の目の前で自分の先生が多くの人に歓迎されることを見ました。多くのなつめやしの枝が振られる姿を見て、彼らは何を思ったのでしょうか。自分たちの先生が行っている道が正しいと思ったのでしょうか。それとも、もうすぐ自分たちが報いを受けるだろうと思ったのでしょうか。私は、彼らが自分たちの明るい将来、楽観的な将来を夢見たと思います。しかし、イエスさまは彼らの前でロバの子に乗られました。報いを願っていた彼らに、イエスさまは自分の弟子たちが受けられるものは、なつめやしの枝ではなく、十字架であることを教えてくださったのです。

 今日の福音書16節にはこのように書かれています。「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。」弟子たちは、なぜイエスさまがロバの子に乗られるかが分かりませんでした。しかし、復活を経験した弟子たちは、イエスさまがロバの子に乗られたことと旧約聖書の預言を理解することができるようになりました。私たちも、当時の弟子たちのような心を持っているなら、なぜイエスさまがロバの子に乗られるかが分からないと思います。私たちも振られているなつめやしの枝を見て、楽観的な将来を期待し、人々の歓声を聞いて栄光を得ようと思うかもしれません。しかし、そこには、神の国も、永遠の命もありません。人の欲望に支配された場所では、神の国を咲かせることはできないからです。それで、イエスさまは、十字架に向かって行かれました。そして、ご自分に従ってくる弟子たちに、なつめやしの枝ではなく、十字架を背負って、ご自分に従いなさいと言われました。イエスさまに従う者に与えられるものは、なつめやしの枝ではなく、十字架です。

 教会の伝統によると、枝の主日(パーム・サンデー)には、なつめやしの枝を振って礼拝を行います。そして枝の主日の礼拝が終わってから、その枝を干して保管します。そして翌年、灰の水曜日に、干して保管したなつめやしの枝を灰にして、信徒たちの額にその灰で十字架を描きます。そうしながら、創世記3章19節の言葉を伝えます。「塵にすぎないお前は塵に返る。」なつめやしの枝の終わりは塵に返ることしかありません。今、私たちが過ごしている四旬節の教えは、十字架です。十字架を通した救いと永遠の命が皆さんと共に、いつまでもありますように祈ります。アーメン