復活節第3主日
使徒言行録 3:12~19 | 1ヨハネ 3:1~7 | ルカ 24:36b~48
新型ウィルスの感染拡大が心配な時ですが、大宮教会の皆さんよく来られました。集められて感謝。そして私もよく来ました。皆さんと共に御言葉に聴けますこと感謝いたします。
主が復活された、ということが、私たちに何を示しているのか。死が乗り越えられたということであり、永遠の命への道が開かれたのでもあり、死の恐れから解放してくださったことでもあります。そして加えて、復活のイエスさまが、これでもかこれでもかと弟子たちに届けようとされているのが、「あなたは受け入れられている」ということだと聞こえるのです。
弟子たちは自分たちが受け入れられていないと思っている。それどころか、裁かれるだろうと。自分だって自分を受け入れられない。そんなことでした。その彼らに、復活の主は「平和があるように」とおっしゃった。手や足をお見せになって、私は生きていると示される。あげく、魚をむしゃむしゃと食べられました。
イエスさまの言葉のその奥底に流れているのが、あなたは受け入れられているぞ、という声であると思うのです。
私たちにとって、受け入れられているという声を聴くことがどれほど重要か。それは申すまでもないでしょう。受け入れられていないとすれば、私たちは生きることができません。
学校でも、職場でも、そして家族であり世界にあって、受け入れられていないことがどれほど切なく、孤独なことでしょうか。私たちにとって人に受け入れられていない。世界に受け入れられていない。というのは深い苦しみです。
ティリッヒという神学者は「生きる勇気」という本を著しました。ここでいう勇気とは、力強く戦う勇気というような勇敢さとか力強さではない。本当の勇気とは、こんな自分でも受け入れられているということを受け入れることだといいます。自分でも受け入れがたいようなこんな自分を受け入れ、そして受け入れられているとして生きてゆく、それが本当の勇気だと。
さて、主の十字架のあとの弟子たちです。
思えば弟子たちは、信頼する生活を根こそぎ失ったわけです。すべてをかけて従ったイエスさまがもういない。十字架に向かわれるイエスさまを見捨てた自分。信頼を裏切った自分。ヨハネによれば弟子たちは鍵をかけた部屋にいたとありますから、不安と恐れのまっただ中です。
ユダヤ世界から受け入れられていない。イエスさまを見捨てたのですから、もちろんイエスさまから受け入れられていない。ということは神さまにも受け入れられていない。もうどうしようもない。加えて自分でも自分を受け入れられない。
そんな八方塞がりにいたでしょう。
弟子たちは今、恐れと孤独に捉えられていて、受け入れられていない自分をどうしたものかと思っていたでしょう。
主は、この恐れから人を解放させたいのです。だから、弟子たちの恐れの真ん中に現れた。そして、ほら、私は生きているだろ。私がいるじゃないか。あなたたちは受け入れられている。
イエスさまが真ん中に立たれた時の彼らの動揺は、まさに混乱です。彼らは恐れおののき、亡霊だと思ってうろたえた。疑った。とても受け入れられているなどとは思えず、受け入れない仕打ちがこれから始まるのかと思ったのでしょう、恐れ、疑いました。混乱です。
受け入れられていることを受け入れることの困難さです。主の真意はそう簡単には受け取れません。なぜなら自分があるからです。あくまでも自分に根拠を置く私たちがいるからです。
あのかたに根拠を置くことなのです。それが必要です。
しかしそれは容易なことではなく、そこに気づいてゆく生みの苦しみが、この弟子たちの混乱です。こんな情けない自分たちを主が受け入れてくださるはずがない。これまで描いた人生が崩れてしまった、そのことを受け入れ、その苦しみを受け入れ、裏切った自分を、そして神さまから離れた自分を、それも自分だと受け入れること、そのハードルの高さなのです。
赦されて、受け入れられているその自分をまず手に入れないと何も始まりません。この今の自分を受け入れないと実はいのちが始まらない。
自分で自分を受け入れるでもいいですね。けれど、そんなあやふやな頼りないこともない。私たちの考え方や感じ方はころころと変わってしまう。そんなあやふやな自分が自分を受け入れたところで、あやふやなままなのです。
だからここに復活の主が現れてくださいました。それは、あなたたちはあなたたちを受け入れないかもしれないが、私はあなたたちを受け入れている、というメッセージです。
イエスさまは弟子たちの心の目を開いて、つまり、自分の考えを止めさせて、神さまに立ち帰るようにされ、主の眼差しを与えます。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(46・47節)。と告げました。
メシアは苦しみを受け入れたよ。すると新しい命として今こうやって生きているじゃないか。苦しみは必要だった。あなたたちは神さまから離れたことを後悔しているだろう。十字架から逃げ、そして見捨てたからね。しかし、それは、もっとはっきりと神さまの心を知るために必要なことであった。回心して立ち帰る道をいっそうはっきり見えるようにするためだった。自分の今を受け入れられないだろうが、神はあなたの今を受け入れている。自分の今を赦せないだろうが、神さまはすでに赦している。
この、主の復活という、あり得ないようなことを本気になって2000年間、教会はは伝えてきています。このことのために命をかけた者もいました。
それは、受け入れられている自分を知らされることで初めて生きられる私たちだからです。今の自分を受け入れられない者の苦しみが切実だからです。だから魚をむしゃむしゃ食べるイエスさまをずっと伝えてきました。普通の姿のイエスさまがあなたと共におられる。そんなことあるわけないじゃないか、という常識、理性もおかまいなしに、手のひらの傷を見せいている主を伝えてきました。
それは、おかしなことですが、この復活によってだけ、常識を超えたいのちの世界が伝えられるからです。この理性を超えた命だけが、人を新しく生かし続けたのです。
イエスさまは魚をうまそうに食べたでしょう。私がいるじゃないか、どんな時にもおまえと共にいるぞ。
「わたしの手や足を見なさい」。当然のことながら、十字架につけられた釘のあとがそこにはあります。十字架の苦しみを体に刻んでいる方が、今生きてらっしゃるということです。つまり、この傷は無駄でも悲しみでもない。確かに生きていることを証しする宝としての傷となっています。
それは復活の主の命を知る者は、傷さえも、あるいは死さえも受け入れて、確かに生きることに変えられていくということです。
私たちも傷ついた手で、しかしむしゃむしゃと、おいしく魚を食べることなのです。それは受け入れられている者の喜びではありませんか。
弟子たちはこのイエスさまの姿によって自分が受け入れられていることを知りました。勇気が与えられたのです。そして次への扉を開いた。だから今の私たちにまであのときの勇気が伝わっています。
今、深く嘆いている人。深く悲しんでいる人、深く悔いている人がおられるかもしれません。ですが、そんなあなたのために主の復活があります。絶望の中から示された主の復活が、あなたは受け入れられていると告げています。
部屋の鍵を開けて、さあ、外へ行きなさい。私がいるじゃないか。この御声を聞きながら、受け入れられた私たちは、今度は、恐れず、人を受け入れる人生へと歩み出します。
受け入れられた者は、その難しさにも歩み出してゆくのです。それが復活の主の証人の生き方です。