受け継いで

復活節第6主日 ヨハネによる福音書15:9~17

 近年よく耳にする言葉でSDGsという言葉があります。SDGsとは国連で策定されたもので、サステイナブル・デベロップメント・ゴールズの頭文字をとってSDGsと呼んでいるわけです。日本語では「持続可能な開発目標」という言葉で訳されています。
SDGsには持続可能でより良い世界の実現、「地球上のだれ一人取り残さない」という誓いのもと掲げた17の目標があります。
貧困、飢餓をなくすこと、健康的な生活の確保のために福祉を推進すること、すべての人に公平な教育提供、ジェンダーの平等など…。世界中の人々が平等かつ安全に生きることのできる社会を造るための目標を掲げているわけです。
私たちの暮らす日本でもジェンダーギャップのことが叫ばれ、7人に一人の子どもが貧困に苦しんでいる現実があり、アイヌ人への差別や、外国人へのヘイトクライム、移民や海外からくる人々に対する入国管理施設の闇、原発の汚染土や汚染水問題、沖縄の軍施設問題など課題、問題が山積みです。私たちはこれらのことに対して無視したり、見て見ぬふりや、無関心であってはならないことだと思います。
マザーテレサは言いました「愛の反対は無関心である」。ガンジーは言いました「無関心は暴力より卑劣である」。キング牧師は言いました「最大の悲劇は悪人の圧政や残酷さではなく、善人の沈黙である」と。
近年よく耳にするSDGsは世界中の人々が平等かつ安全に生きることができるように掲げた目標だといいました。約二千年前、今より比べものにならないほど酷いジェンダーギャップがあり、貧困、飢餓、格差、差別、奴隷制度などがある世界のただ中で、私たちの主イエスはこの世の何ものにもへつらうことなく、迷うことなく、憚ることもなく、全身全霊をもって神さまのみ心と、み恵みと、尽きることのない愛をはっきりと示し、互いに愛し合い生きるようにと力強く、大胆に叫び続けたのです。
そしてイエスさまの弟子の群れである初代教会は、イエスさまの言葉を受けて、イエスさまの言葉と、愛とにとどまり、貧困にあえぐ人や差別に遭う人、異邦人や社会的弱者に寄り添い、福音宣教の働きに仕え、神さまの栄光をあらわしていきました。
キリストに繋がる枝である教会、そこに繋がる人々は、キリストから受けた憐れみ、愛、ゆるし、祝福の実を豊かに結び合わせ、多くの人々の心をキリストの愛、希望、いのちで満たしていったのです。
約2000年後の今、キリストの教会に繋がり、キリストの枝とされた私たちも同じように、主イエス・キリストから尽きることのない愛と、恵みと、祝福とを豊かに受け、癒され、慰められ、励まされ、強められ、力づけられ神さまの愛と、恵の中で生かされています。
イエスさまは言います「わたしの愛にとどまりなさい(9節)」と。考えたいのは「わたしの愛」と言われる主イエスの愛がどのような愛かということです。それは、どうにも手におえないような私のような者でも愛想をつかすことなく、見捨てることなく、あるがままで受け止め、どこまでも愛してやまない限りない無償の愛です。
だれでもこの圧倒的、徹底的、絶対的な愛を知り、愛を味わい、愛に満たされたなら、この愛にとどまり続けたい、この愛に満たされ続けたい、この愛に生かされていきたいと思うのではないでしょうか。
そして私たちが味わった主イエス・キリストの愛の実を、今度は私たちに繋がる大切な人にも味わってほしい、キリストの愛に満たされてほしいと思うのではないでしょうか。
イエスさまは言います「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである(11節)」と。大切な人が喜びに満たされた人生を生きてほしい、と思うのはごくごく自然のことだと思います。神さまから与えられた一度きりのかけがえのないいのちの日々を、キリストの平安、キリストの希望、キリストの喜び、キリストのいのちに満たされながら、生きてほしい、それが私たちの主イエス・キリストの願い、望み、み心です。
そして、主イエス・キリストは言うのです、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい、これがわたしの掟である(12節)」と。
掟を守るということは大変難しく、窮屈なように感じてしまうかもしれませんが、掟を与えた主イエス・キリストの心を知り、その愛がわかれば、決して窮屈ではなく、それが難しく厳しいことでも喜びをもって応答していく者とされるのではないでしょうか。
キリストの枝である私たちが主のイエスの掟を守ろうと努めるのは、自分に鞭打って律法を行うような態度ではなく、主イエスの愛を知り、喜びに満たされた感謝と感激の応答であり、私たちを愛してやまない主イエスに喜んでもらいたいという思いから生まれるものだと思うのです。
イエスさまは言います「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない(13節)」と。「友のために」いのちを捨てる愛がそれ以上はない愛だとするなら、「敵のために」いのちを捨てた主イエス・キリストの愛はどれほど大きな愛なのでしょうか!
イエスさまがここで敵のためとは言わずに、友のために、と言われたのは、イエスさまに背き、敵する私たち罪人を敵とは考えずに「友」として受け入れ、愛し、いのちを捨てるのだというみ心が表されているのです。私たちは、この主イエス・キリストの愛の大きさ、広さ、深さにただただ驚かされ、その愛に圧倒されます。
そして主イエスの福音宣言が続きます「わたしはあなたがたを友と呼ぶ(15節)」「わたしがあなたがたを選んだ(16節)」「わたしがあなたがたを任命した(16節)」と。
イエス・キリストとは私たちと、「わたしとあなた」というとても親密な関わりの中にあるのだということ、そして神さまの御用のために選び、任命したとうことからわかることは、私たちに信頼を寄せ、私たちを価値あるもの、貴いもの、大切なものとして受け止めてくださっているのだということです。私のような欠け多き者が、神さまのみ心と愛とを表すための器として選ばれ、用いられていることは、なんとも分に余る光栄であり、喜びであり、生き甲斐です。
私たちは、主イエス・キリストによって福音宣教の働きに仕えて、キリストの愛の実を豊かに結ぶように選ばれ、任命された一人ひとりです。
まずはキリストの枝とされた私たちの教会で主イエス・キリストの愛に応えて互いに愛し合い、キリストの愛の実を豊かに結びましょう。そしてイエスさまが「あなたがたが出かけていって実を結び、その実が残るように(16節)」と言われるようにそれぞれのいのちの営みの場で神さまに祈りつつ、キリストの愛を思いめぐらし、キリストの愛にとどまり、キリストの愛を伝えていく者、分かち合っていく者でありたいです。
世界中の多くの人々がSDGsの目標を掲げ、声を上げ行動しています。私たちキリストの体であり、キリストの枝である教会はイエス・キリストによって示された神さまの愛の福音を高く高く掲げ、主イエスがそうであったように神さまのみ心と愛を力強く、大胆に声を上げ行動して愛の実を結んでいきましょう。主イエスから受けた愛を子どもたちに、次の世代に、つなげていく、伝えていく、証ししていく教会でありたい、私たち一人ひとりでありたいです。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。(12節)」