聖霊降臨後第7主日 マルコによる福音書6:14~29
先日、俳優の大杉漣さんの遺作となった「教誨師」という映画を見ました。教誨師とは、刑務所で受刑者などに対して徳性教育をし、改心するように導くことを無報酬で行い、多くの場合、僧侶や牧師などの宗教家が担っているといわれます。
受刑者が死刑囚の場合、教誨師は、拘置所で死刑囚と面談できる唯一の民間人となるそうです。面接を望む死刑囚と対話し、さらに、面接を受けた死刑囚の刑の執行の場にも立ち会うそうです。
俳優の大杉漣さんは、教誨師として死刑が確定した死刑囚と向き合い、導こうと奮闘する佐伯という名の牧師を演じていました。
人は十人十色。死刑囚も様々で、教誨師の話に耳を傾ける者もいれば、自分の話ばかりする者、高圧的な態度で見下す者もいるわけです。佐伯牧師はさまざまな事情を抱える死刑囚たちとの対話のなかで「救済」とは何かを考えながら、苦悩しながら、真摯に向き合い続けます。
佐伯牧師が、いつも高圧的な態度をとっていた死刑囚に向かって心を込めていいます、「最期を迎えるときまで、ずっとそばにいて離れない」と。その言葉を聞いた死刑囚の態度と雰囲気は「ふっと」柔らかくなり、佐伯牧師の言葉に「ひとりではないんだ」と感じて、安堵したように微笑むシーンは、心に響くものがありました。
独房でいつ刑が執行されるかわからない死を待つばかりの人間の気持ちは誰にも汲み取ることができないかもしれません。でも、否、だから教誨師は向き合い続け、寄り添い続けます。
この映画でとても考えさせられたシーンは、佐伯牧師から「ひらがな」を習っていた年老いた死刑囚が佐伯牧師に渡した紙に書かれていた言葉を見るシーンです。紙にはこう書かれていました「あなたがたのうち だれがわたしにつみがあるとせめうるのか」…。
死刑執行に関わる人間はみな苦悩するといいます。なぜなら、生身の人間が生身の人間のいのちを奪うものだからです。人の手でいのちが奪われる現場に立ち会う教誨師の気持ちはどのようなものかと考えると非常に過酷な仕事だと思わされます。と同時に、独房でひとり死を待つばかりの者に最後まで寄り添い続ける教誨師という存在は必要であると感じました。
人は弱いものです。人の出会いや、置かれた環境で善人にも悪人にもなるでしょう。だから必要です。私たちを正しい道へ、光の射す方へと導いてくれる存在が。語りかけ続け、働きかけ続け、呼びかけ続けてくれる存在が必要です。この世界と私たち人間には、「最期を迎えるときまで、ずっとそばにいて離れない」と言って、関わり続け、語りかけ続け、呼びかけ続けてくれる存在が必要だと思います。
いつの時代でもヘロデのような地位と権力を振りかざす人間がいます。ヘロディアのようにエゴと欲望を満たすために地位を利用する人間もいます。ヘロデのそばにいた高官や将校、ガリラヤの有力者たちのように私利私欲のため、権力者の横暴に目をつむり、尻尾を振り続ける人間もいます。
そして、聖書を読んで思うことは、もしも自分がヘロデと同じ、ヘロディアと同じ、ガリラヤの有力者と同じような環境に置かれ育っていたなら、彼らと同じような態度、振る舞い、生き方をしていたのではないか、否、していただろうということです。つまり朱に交われば朱になるのが私という人間だということ。私の周りの環境や、傍にいる人が、私の心を染めていくものだと思います。
実際に、ヘロデはヨハネと交わることによって心が揺さぶられ、ヨハネの語る言葉を喜んで聞いていたということが聖書に記されてあります。ヘロデに文字通り懸命に向き合い、神さまの言葉、神さまの思いを伝え、悔い改めるように必死で呼びかけ続けたのはヨハネだけであったのではないでしょか。時に厳しきく、耳障りの悪いような言葉であっても真剣に呼びかけるヨハネの言葉から伝わる神さまの思い、神さまの深い憐れみと、愛とが胸に響いたからこそ、ヘロデは喜んで耳を傾けていたのだと思います。
しかし、ヘロデは自分の体と心とに絡みつく悪と、取り囲む誘惑からヨハネの首をはねてしまうことになり、くしくもヘロデの誕生日がヨハネの命日となりました。
ただ、ヨハネを通してヘロデに語られ、呼びかけられた神さまのみ心と、み言葉は、いつまでもヘロデの心の中で生きることになっていった、忘れることなどできないものとなっていたのではないかと思います。
ヘロデは、イエスさまの話を耳にしたとき、洗礼者ヨハネが生き返ったのだ、といっていたと聖書は言います。このときヘロデは恐れを抱いていたのかもしれません。でも、と同時に、なにか安堵するようなやわらかな光が心に射しこんできたようにも感じたのではないかと思うのです。ヨハネの言葉に心揺さぶられ、喜びが湧き上がっていたことを思い起こしていたかもしれません。
ヘロデは思い知ったのではないでしょうか、ヨハネが真剣に、真摯に、懸命に語りかけた神さまのみ心と、み恵みと、み言葉は、この世の誰にも、何ものにも消し去ることも、奪い去ることも、取り去ることも、葬り去ることもできないのだということを。聖書は言います、「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ(イザヤ40:8)」と。
人は誰もが心のうちに拭いきれない罪を抱えていて、目には見えない怒りや、妬みや、悲しみの闇を心に抱えていると思います。そのような私たちを神さまはみ心にとめ、心配り、心砕き、深い憐れみと、尽きることない愛をもって働きかけ、語りかけ、呼びかけ続けてくださるのです。
誰もが心に拭いきれない罪の闇を抱えているから、愚かにも罪を犯してしまうことも、人としての道を外してしまうことも、真理にそむくようなことをしてしまうようなこともあるから…神さまは呼びかけ続けてくださる。
私たちの主イエス・キリストは人々から見捨てられ、死刑を宣告され、十字架に磔にされたあの十字架上でも神さまの深い憐れみと尽きることない愛を示し、福音を語り、呼びかけ続けました。イエスさまは、罪の闇を心に抱えるすべての人の耳に届くように、心に響くように、神さまのみ心と、み言葉と、愛とを十字架に至るまで示し続け、語り続け、呼びかけ続けました。
神さまは今日もこの礼拝を通して私たち一人ひとりに、み心と、み言葉と、愛とを示し、語りかけ、働きかけてくださっています。そして、神さまはこれからもキリストの体である教会を通して、とこしえに立つみ言葉をもってこの世界と、私たち一人ひとりに関わり続け、呼びかけ続け、導き続けてくださいます。
この世の誰にも、何ものにも、コロナであろうと、たとえそれが死であろうとも、私たちに向けられている神さまの愛のみ言葉を消し去ることも、奪い去ることも、葬り去ることもできません。
神さまは、私たちが「最期を迎えるときまで、ずっとそばにいて離れない」。大丈夫、あなたは決して一人じゃない。安心して、神さまが共にいてくださいます。
私たちは、また今ここから神さまのみ心と、み言葉と、愛とに励まされながら、支えられながら、導かれながら生かされていきましょう。
私のことをいつまでも呼びかけ続けてくださる神さまの声に耳を傾け、神さまを見つめ、神さまと共に生きていきましょう。