神を神として迎え入れましょう

聖霊降臨後第9主日 ヨハネによる福音書6:1~21

 ディズニーアニメの中でアラジンという有名なアニメがあります。このアニメは、ランプを巡って起こることを描いた物語です。このランプは、 ジーニーという神が入っている魔法のランプです。ジーニーは、大きな力を持っている神ですが、一つの弱点があります。ランプの持ち主の願いを無条件で、聞き入れなければならないということです。強力な力を持っていると同時に、持ち主の心と考えに従わなければならない神、それがジーニーという神です。このような展開から見ると、人々には神に対する欲求があるということのようです。大きな力を持っている神が自分だけのために働いてくれることを願う欲求なのです。面白いことですが、聖書にも、このような話があちこちに書かれています。代表的な話の一つが、旧約聖書の士師記17章の話です。ミカという有力者が登場していますが、彼には神殿もあり、エフォドとテラフィムも造ってもっていました。エフォドは祭司が着る特別な服であり、テラフィムは家を守ってくれる神の形をしたお人形です。そして彼は、自分が持っている神殿に、息子の一人を祭司として選び、立てていました。当時は王政時代でもなかったし、ダビデの神殿が建てられる前でした。信仰の確立や教育、秩序が守られていない時期だったので、ミカは、自分のために神殿を建て、息子の一人を祭司にして立てていたのです。

 しかし、基本的にミカも、祭司はアロンの子孫であることを知っていたと思います。だからミカは、偶然に出会った若いレビ人を自分の神殿の祭司としてスカウトします。そしてミカはこう言います。士師記17章13節の言葉です。「ミカは、『レビ人がわたしの祭司になったのだから、今や主がわたしを幸せにしてくださることが分かった』と言った。」ここでのミカは、神さまをどのように思っていますか。ミカは神さまを、まるで、ランプの神のように思いました。自分がすべてのことを決め、神さまは自分を幸せにしてくださる神だと思いました。自分が神さまに従うのではなく、神さまが自分に従うことを願ったのです。

 私は、このようなことが聖書に記録されたとは、多くの人々がミカと同じ過ちを繰り返していたからだと思います。そして、その過ちは、今も繰り返されています。神さまは神さまです。人間が神さまに従うのであり、神さまが人間に従うのではありません。しかし、人々は、神さまが自分に従ってくださることを願っています。神さまのご意志を求めることよりも、自分の祈り、自分の願いをかなえてくださることを願います。今日の福音書でもこのようなことが起こります。今日の福音書は、パン五つと魚二匹で5000人を食べさせる奇跡が書かれています。この奇跡をどの観点から見るかによって解釈が異なりますが、私は、この5000人を食べさせる奇跡の中には、人間の欲と弱さ、そしてこれによって、起こる様々なことが示されていると思います。

 今日の福音書は、イエスさまの移動と大勢の群衆が従うことで始まります。ヨハネによる福音書6章1〜2節の言葉です。「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわち、ティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。」「その後」というのは、今日の福音書の前に何かが起こったということでしょう。イエスさまは安息日に人を癒したということによって迫害を受けられます。ここにイエスさまは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と答えられます。この答えは、ユダヤ人たちに怒りを買って、ますますユダヤ人たちはイエスさまを殺そうと狙うようになりました。しかし、このような中でも、かなり多くの人々がイエスさまについて来ました。なぜなら、今日の福音書2節の言葉のように、イエスさまの奇跡を見たからです。

 イエスさまは弟子たちと一緒に山に登られ、ご自分のところに来る大勢の群衆をご覧になりました。イエスさまは大勢の群衆を御覧になり、弟子フィリポにこのように尋ねられます。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか(5節)。」この尋ねは、フィリポに対する試しでした。この尋ねにフィリポは計算をしました。7節の言葉です。「フィリポは、『めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう』と答えた。」イエスさまがフィリポに聞きたかった答えは、計算の結果ではなかったでしょう。二百デナリオン分のパンでは足りないというのは、誰が見ても推測することができたでしょう。イエスさまが聞きたかったのは、計算ではなかったと思います。しかし、フィリポは計算することを選び、イエスさまの試しに落ちました。他の弟子も同じでした。アンデレという弟子がイエスさまにこう言います。9節の言葉です。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

 神の子の前で人間的な方法を選ぶこと。これも神の子を神の子として受け入れないことでしょう。イエスさまは、ご自分の弟子たちさえにも認められなかったのです。弟子たちも、イエスさまの奇跡を見てついて来た人々と違うところがありませんでした。イエスさまは、このような弟子たちの前で正解を教えてくださいます。イエスさまは、「何の役にも立たないでしょう」と言ったアンドレから、パン五つと魚二匹をお受けになります。そして、それで5000人を食べさせます。しかも、人々に欲しいだけ分け与えられました。神の子にはどの答えがふさわしいかを教えてくださったのです。弟子たちだけでなく、イエスさまの前に集まったすべての人に、イエスさまは改めて、ご自分が誰なのかを示されました。

 しかし、人々は変わらず悟ることができませんでした。再び奇跡のことだけに集中しました。奇跡を見た人は、イエスさまを世に来られる預言者であると言い、イエスさまを王にしようとしました。自分の欲に従って、イエスさまを自分の王にしようとしたのです。ヤコブの手紙1章15節には、こう書かれています。「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」欲を持っては、イエスさまに従うことはできません。欲によるということは、自分の心に従うことだけであり、最終的には欲によって、自分自身を滅ぼさせるのです。それで、イエスさまは、彼らから離れられました。ご自分を王にしようと思っている彼らから離れて、山に退かれました(15節)。

 イエスさまが山に退かれると、弟子たちは船に乗って、湖の向こう岸に行こうとしました。今日の福音書では書かれていませんが、マルコによる福音書では、イエスさまが弟子たちを強いて船に乗せて行かせたと書かれています。そして弟子たちは、湖で強い風によって苦しめられます。イエスさまによって、弟子たちが苦しめられたのです。私はこの場面を黙想しながら、この弟子たちの苦難は、まるで訓練と同じだと思いました。弟子たちは、イエスさまを信頼しなければなりませんでした。イエスさまを神の子として信じ、自分の欲を捨てて、イエスさまに従わなければなりませんでした。しかし、弟子たちはそのようにしませんでした。イエスさまの前で人間的なことを選び、持っているパンと魚では何もできないだろうと思いました。だからイエスさまは、再び改めて、弟子になるための訓練をさせたのだと思います。どんな状況でも、イエスさまだけを信じることができるようにした訓練です。そのとき、イエスさまは苦しめられている弟子たちの前に現れられます。苦難の中でイエス様と出会った弟子たちの心は、どうだったでしょうか。計算をしたり、自分の考えを立てたり、イエスさまに対する欲を持ったり、することはなかったでしょう。イエスさまが来られたということに、誰もが安心して喜んだでしょう。イエスさまを神の子として受け入れたと思います。皮肉なことに、人間は、危機の瞬間に最も純粋になるようです。すると間もなく、船は目指す地に着きました。21節の言葉です。「そこで、彼らはイエスを船に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」純粋にイエスさまを迎え入れたとき、彼らは目指す地に着くことができました。

 マルティン・ルターは、自分の本や説教でいつもこのように言いました。「私ではなく、神さまがなさった。」神さまが宗教改革についてのすべてのことを導いておられるということです。そしてこれをメソジスト神学者フィリップ・ワトソン(Philip S. Watson)は、このようにまとめました。「Let God Be God!」神さまを神さまとして認めること。これがルターの宗教改革の遺産です。真の信仰は、欲に従うものではありません。人間的な計算もなく、自分の考えを立てることもありません。そして、イエスさまをイエスさまとして迎え入れます。この信仰が私たちの信仰になりますように。私たちの生活の中で、イエスさまがイエスさまとして認められますように、主の御名によって祈ります。アーメン