天のパンになられたイエス

聖霊降臨後第9主日 ヨハネによる福音書6:1~21

 私の趣味の一つは、料理をすることです。美味しい料理をして、家族や知り合いにもてなすことが好きです。家族のために料理をすると、健康のことを考えなければなりません。だから、子供たちがよく食べるかよりは、何を食べさせるかに関心を持って料理をしています。そうすると、時には、子供たちがあまり食べない料理を作ることもあります。やはり子供たちは、野菜や豆腐、納豆で作った料理は、あまり食べません。しかし、このような食べ物の中に子供たちに必要な栄養素が入っているので、作って食べさせるしかないでしょう。子供たちがあまり食べないと、直接食べさせたり、自分の分を全部食べ終わるまで、お菓子やアイスクリームのようなデザートを与えなかったりしています。このようなやり方に、子供たちの不満がないわけではありません。今は子供たちが父の心を理解することができないでしょう。しかし、大人になると、なぜ、父がそこまで厳しく食事教育をしたのかが、よく分かるでしょう。

 今日の福音書35節でイエスさまは、ご自分を「命のパン」と言われます。そして、ご自分のもとに来る人は、決して飢えたり、渇いたりすることはないと言われました。しかし、この言葉は、肉体的なことにとどまっているのではありません。イエスさまが飢えたり、渇いたりすることはないとおっしゃったのは、私たちが望んでいることを与えられるとか、私たちの肉体を満腹にさせるということではありません。私たちの霊が飢えないようにしてくださる。私たちの中に神の言葉を満たしてくださる。だから、私たちが肉体に縛られて生きるのではなく、神の霊に従って生きるようにしてくださるということです。しかし、当時のユダヤ人たちは、このようなイエスさまの言葉を理解することができませんでした。彼らは、まるで、健康にいい食べ物を嫌がる子供たちと同じでした。自分の口に合うことだけを望み、肉の平安と栄光だけを求めました。イエスさまは、神さまのご意志を教え、ユダヤ人たちは、肉的なものを望んでいたからです。

 今日の福音書41節でイエスさまは、ご自分を天から降って来たパンと言われました。この言葉は、ユダヤ人の耳に逆らう言葉でした。当時の律法学者たちや教師たちは、頻繁にトーラーを「パン」と表現していました。その一部の学者は、「マンナとパン」を同じように思っていました。このようなことを信じていた彼らに、イエスさまはご自分を「神さまの言葉、天から降って来たパン」と言われたのです。この言葉が今、私たちには、当前の言葉ですが、当時のユダヤ人たちには、神さまを冒涜すること、トーラーを毀損することでした。それで彼らは、つぶやき始め、イエスさまの出身を指摘したのです。41〜42節の言葉です。「ユダヤ人たちは、イエスが『わたしは天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、「わたしは天から降って来た』などと言うのか。」』」

 私の経験によると、多くの人々は、自分が知っていることを固く信じている面があります。自分が知っている情報、知識、経験などを信じ、他のことを受け入れようとしません。このようなことにメリットがないわけではありませんが、欠点もあります。ユダヤ人たちがイエスさまを受け入れなかったのも、彼らが知っていることだけにこだわったからだと思います。当時のイエスさまの教えは、新鮮で新たなことでした。そのため、イエスさまの言葉を受け入れるのが難しかったのかもしれません。しかし、イエスさまは、ご自分の言葉に反対する人たちと議論し、常に勝ちました。議論で勝ったのは、当時のイエスさまの言葉には、問題を発生させることがなかったということでしょう。しかし、多くのユダヤ人たちは、いろいろな理由を取り上げて、イエスさまの言葉を受け入れませんでした。イエスさまの言葉に説得力があればあるほど、むしろ、イエスさまのあらを探そうとしました。その中の一つが、イエスさまの出身でした。彼らは、自分たちがイエスさまの出身を知っていると言いました。

 これは、イエスさまの言葉とは全く関係のない、論点をぼやかすことでした。しかし人々は、このようなことによって、イエスさまに従うことを躊躇しました。彼らが知っていること、イエスさまの出身や家族を知っていることが、彼らの足を引っ張ったのです。天から降って来たパン、神の子は、ご自分を知っている人には、受け入れられませんでした。だから、イエスさまは人々には、特に、ご自分の血縁と地縁の人々に、神さまの導きについて話されたのだと思います。神さまの導きがなければ、誰もご自分のもとに来ることができないということです。44〜45節の言葉です。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。」

 以前の私は、この言葉が信じる者と信じない者の違いについての言葉だと思いました。だから信者である私たちは、神さまに導かれて信仰生活をしていると思いました。そしてこの言葉を通して、イエスさまは当時の読者たち、苦難の中にいる初代教会の人々を励まし、慰めておられると思いました。しかし、今回この箇所に再び接した時、私は、意外な単語に目が行きました。「もとへ」という言葉です。このイエスさまの言葉は、状況によって変わることができると思います。私たちのような読者にとってのこの言葉は、導かれて信仰生活をするようになったということを教えてくれる言葉です。しかし、イエスさまのもとに来て、お話を聞いている人にとっては、この言葉が信仰生活の話だけにはならなかったでしょう。当時の彼らは、イエスさまのもとにいたからです。イエスさまは、ご自分のもとに来た人々に、ご自分のもとに来たこと、それが神さまが引き寄せてくださったのだと言われたのです。彼らがたとえ、イエスさまの出身を知っており、信じていませんが、イエスさまは、ご自分のもとに来たことが神さまの導きであり、預言者の書に書いている通り、神さまによって教えられたからだと言われます。イエスさまは、現在、イエスさまを信じている人々だけでなく、当時、ご自分のもとに来た人々にも、神さまの導きがどのように素晴らしいことかを教えてくださったのです。

 イエスさま自身以外には、誰もこのような神さまについて分からないでしょう。驚くべき神さまの導きとご計画について、分かる人は一人もいません。なぜなら、神さまと共にいないからです。それでイエスさまは、46節でこう言われます。「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」イエスさまは、「神を見た」と言われます。聖書でイエスさま以外に、神さまを見たと推定される人はモーセです。しかし、イエスさまの話によると、偉大なモーセも神さまを見たことはないというのです。ただご自分だけが神さまを見て、しかも、神さまのもとで見たと言われます。これは、神さまの導きとご計画など、すべてを知っておられるということです。そして、このすべてのことを知っておられるイエスさまは、神さまのご計画によって遣わされました。私たちに永遠の命を与えてくださるため、私たちの命のパンになってくださるためです。

 イエスさまは48節で、「わたしは命のパンである」と言われます。そして旧約聖書のマンナについて言われます。先週の説教で申し上げたように、人々がイエスさまにしるしを求め、マンナの話をしたことには、理由があります。それは当時の人々に伝わったミドラーシュという説教・解釈集には、救い主とマンナに対する言葉が書かれていたからです。「最初の救い主がマンナを下されたように…最後の救い主もマンナが下されるようになさる」という言葉です。イエスさまが救い主であるかもしれないと思った人々は、イエスさまにマンナのしるしを求めました。しかし、イエスさまは彼らの願いを聞いてくださいませんでした。神さまがマンナを与えられた目的と彼らの目的が違ったからです。だから、イエスさまはこう言われます。49〜50節の言葉です。「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。」
 この言葉の意味は何でしょうか。「あなたがたが求めるマンナ、つまり、肉体のためのマンナは、食べても死ぬしかないものだ」という言葉だと思います。さらに、神さまが荒れ野で下されたマンナも、命のためのものでした。マンナが下されなければ、イスラエルの民たちは、飢えて死ぬしかありませんでした。だから、マンナというものは、単に肉のためのものではありませんでした。ところが、イエスさまのもとに来た人々は、自分たちの肉体のために、マンナのしるしを求めました。このような彼らにイエスさまは、肉体のためのマンナは食べても死ぬしかないものであることを教えてくださいます。そして、真のマンナ、命のパンであるイエス・キリストを食べる人だけが死なないことを言われます。イエスさまは私たちのために、命のパンとしてこの世に来られました。このパンを食べる者は、誰でも永遠の命を得るのです。私たちのために命のパンになられたイエスさまに、いつまでも栄光がありますように。命のパンを通した永遠の命の約束が、皆様と共にありますように、主の御名によって祈ります。アーメン。