生きるように

聖霊降臨後第15主日 ヨハネによる福音書6:51~58

 今日8月15日は終戦記念日です。戦争で亡くなられた尊いいのちを追悼し、戦争という悲劇、愚かな行為を二度と繰り返してはいけないという思いを確かにすると同時、いのちを大切にすると決心する日だと思います。
世界の年間軍事費を調べてみたのですが、2020年はおおよそ1兆9700億ドルが世界の軍事費として支出されていたといわれます。約200兆円。この半分でもコロナ禍で苦しむ人々に、貧困状態にある人びとのいのちのために用いることができないのかと思うのは私だけでしょうか。
世界で唯一の被爆国である日本は核兵器の根絶、人のいのちを奪う武器・兵器の縮小、製造中止に声を上げ続けるべきだと私は思います。
戦争体験者の方の話を聞くと、空襲の時には爆弾が雨のように降って来たといいます。そして町は真っ赤に燃え上がり、悲惨な光景が目の前に広がった、と…
同じことが自分の身に起きたら恐ろしいなと思うと同時に、そうまでして人のいのちを奪い合うことを繰り返す人間の愚かさ、罪深さに愕然とします。
あるクリスチャンがこんなこと言っていました、「人間は空から爆弾を降らし、神さまは天からイエスさまを降した」と。
神さまが降されたみ子イエス・キリストのいのちには、神さまのこの世界と私たち一人ひとりのいのちを大切に思い、愛してやまないという御心と、神さまがどれほどこの世界の平和と人々の平安を望んでおられるのかがはっきりと現わされています。
イエスさまは言います「わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と。
神さまは愛してやまないこの世を生かすために、私たち一人ひとりを生かすためにみ子イエス・キリストを降し、生きたパンとしてキリストのすべてを差し出し、与え尽してくださったのだと聖書はいいます。それは私たちがすばらしい人間だからだとか、優れている人間だからと言わけでは一切なく、どちらかといえば未熟で、愚かで、罪深い人間であるにもかかわらずにです。
全地全能の神さまにもできないことがあるんです。それはこの世界を見捨て、私たち人間が罪と死と滅びの闇に堕ちてゆくままにしておかれることです。
今日の聖書箇所には、「生きたパン」とか「永遠に生きる」とか「世を生かす」とか「生きるように」というように、「生きる」という言葉が何度も出てきます。神さまがどれほど私たちのいのちのことを顧みてくださり、大切に思い、生きることについて心配り、心砕き、み心に置かれているのかをはかり知ることができます。
愛してやまないもののいのちを大切にしたい、守りたい、生きてほしいと思うのは当然のことだと思います。なぜなら、愛する存在を失うこと、愛する存在と別れることは私たちに非常な痛みをもたらすからです。愛すれば愛するほど、その愛する人との死の別れはとても辛くて、悲しいことです。
僕には愛してる息子が二人います。彼らを失ったらと考えるだけでも胸が苦しくなります。愛してやまない存在の死の別れがどれほど苦しくて、悔しくて、悲しい思いをするかを神さまはご存じでしょう。それでも、独り子イエス・キリストをこの地に降し、いのちを差し、キリストのすべてを与えてくださったのです。すべては愛してやまない私たちの救いのためにです。
イエスさまは言います「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を世の終わりに復活させることです(ヨハネ6:40)」と。神さまのみ心は、私たちがイエス・キリストを信じて、キリスト共に生きるようになれ、キリスト共に生きるものであれ、ということです。
イエスさまは人々に「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである(51節)」と言われ、世を生かすため、私たちを生かすためにご自身のすべてを差し出すし、何もかもを与え尽すと宣言し約束してくださいました。
私たちの主イエス・キリストの約束は、私たち人間が自分の都合で曖昧にしてしまう約束とはわけが違います。私たちの救いのために十字架のうえにまでその身を置かれた主イエス・キリストの約束は絶対、不変、永遠です。
イエス・キリストの体と血とを食するという言葉の真意は、神さまが「世を生かすため(51節)」に無条件に差し出し、与えてくださった生きたパンであるイエス・キリストを信じて、自分のものとしてしっかりと受け止め、受け入れ、感謝していただきなさいということでしょう。そしてイエス・キリストが宣言し、約束された永遠のいのち得て、キリストのいのちにあらわされた神さまの尽きることのない愛の中で平安のうちに生きなさいといことでしょう。
少し前に、浄土真宗のお坊さんが書いた本を読みました。そのお坊さんのお父さんもお坊さんなのですが、若くして肺の病気に罹り40代で亡くなったそうです。その僧侶であったお父さんが亡くなる前日、あまりの苦しさにのたうちまわり、「このまま殺してくれ」と何度も叫んだそうです。そして村人の葬儀の時に唱えていた「南無阿弥陀仏」という大切な言葉も、臨終の間際まで口にすることは一度もなかったと書かれてました。
この本を読みながら自分も酷い病に罹ったときには辛くて、苦しくて、何もできなくて、臨終の間際まで何の言葉も口にすることができないなんてこともあるだろうな、と思いました。でも何もできなくても、何の言葉も口にすることができなくても、イエス・キリストを信じることはできる。私の救いのために神さまが差し出してくださったイエス・キリストを信じて、信頼して、すべてをゆだねきることはできると思って安心している自分がいました。
仏教にも、神道にも、イスラムの教にも、ユダヤの教にも、救い主はいません。しかし、私たちには「この世を生かすため」、私たちの救いのために、天から降って来てご自身のすべてを与え尽してくださった救い主イエス・キリストがおられます。
私たちの主イエス・キリストは何度もいいます、「信じる者が皆永遠のいのちを得る(40節)」「信じる者は永遠のいのちを得ている(47節)」「このパンを食べるものは永遠に生きる(58節)」と。
神さまは愛してやまないこの世を生かすために、私たち一人ひとりを生かすために神さまの言葉であり、思いであり、愛である、み子イエス・キリストを与えてくださいました。
私たちはこれからも神さまが私たちのいのちのために差し出してくださった主イエス・キリストを信じて、すべてをゆだねて、まかせて、あずけて、安心して、心穏やかに、平安のうちに生かされて生きましょう。
そして私たちは天から降って来た生きたパンであるイエス・キリストを、繋がり合う人々に惜しみなく、喜びをもって分かち合い、届け、知らせ、証しして、みんなで共にキリストのいのちと愛の中で生かされるものでありたいです。
主イエス・キリストの愛、キリストの平和と、キリストのいのちがみなさまの上に豊かにありますように祈ります。