耳を持たない人々

聖霊降臨後第15主日 マルコによる福音書7:24-37

 福音書には、いろいろな地名が書かれています。そして、イエスさまと弟子たちは、この地域を移動しながら、様々な活動をしました。福音を伝えたり、奇跡を起こしたりしたこともあり、議論したり、退けられたりしたこともありました。そのため、イエスさまが行かれた所を研究するのは、私たちにとって必要なことだと思います。イエスさまの移動や足跡について分かったら、私たちはより深く福音書の言葉が理解できるようになるからです。イエスさまは、主にガリラヤで活動なさいました。十字架につけられて死なれた場所は、エルサレムですが、エルサレムには、特別な祭りを除いては、あまり行かれませんでした。イエスさまの公的な生涯の時代的特徴を見ると、エルサレムでは洗礼者ヨハネが活動し、ガリラヤではイエスさまが活動なさる様子でした。ヨハネによる福音書3章を見ると、一時、洗礼者ヨハネとイエスさまが同じユダヤで活動する様子が書かれていますが、イエスさまはすぐユダヤからお離れになり、ガリラヤに行かれます。地図上、イエスさまは北の方で、洗礼者ヨハネは南の方で活動したということです。

 ガリラヤという場所は、イザヤ書で異邦人の所として表現されるほど、多数の異邦人たちが住んでいた場所です。エルサレムがユダヤ人の聖地であり、中心部のイメージを持っているなら、ガリラヤは、ユダヤ人と異邦人の交流と混合がある場所でした。それで、当時のユダヤ人にとってのガリラヤは、エルサレムよりは劣る地域という認識がありましたが、信仰の伝統からは、少し自由な場所でした。イエスさまはこのような場所で、ユダヤ人だけでなく、異邦人にも神の国を伝えられました。ユダヤ人のメシアではなく、みんなのメシアとして公的な生涯を生きられたのです。そして、このすべてのことは、旧約聖書の預言を成し遂げること、つまり、神さまのご意志でした。今日の福音書には、異邦人に対するイエスさまの奇跡が書かれています。この奇跡が起きた所も、ユダヤ人の地域ではなく、異邦人の地域でした。イエスさまの宣教の対象は、ユダヤ人だけではないということを示してくれるわけだと思います。ところが、この奇跡の過程の中でのイエスさまは、私たちが知っているイエスさまと全く違う様子でした。イエスさまは、まるでユダヤ人のような様子を見せられました。助けが必要になってご自分のところに来た異邦の女に、犬のように対されました。なぜイエスさまは、このような姿を見せられたのでしょうか。今日の福音書が属しているマルコによる福音書7章の流れを読みながら、共に調べてみましょう。

 今日の福音書は、「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた(24節)」という言葉から始まります。ここでのティルスは、ガリラヤに隣接している異邦の地域であり、イエスさまがおられた場所は、ガリラヤのゲネサレトという地域でした。イエスさまはここで、エルサレムから来たファリサイ派の人々と律法学者たちの指摘を受けます。イエスさまの弟子たちが昔の人の言い伝えを守らなかったというのです。この言葉の内容が先週笠原先生が説教してくださった福音書の内容です。エルサレムのファリサイ派の人々と律法学者たちは、律法だけでなく、昔の人の言い伝えも非常に大事に思っていました。彼らの言い伝えの一つは、出かけて来た後、手と身を洗うことでした。皆様は、最近以前よりは、よく手を洗ったり消毒したりするでしょう。コロナ時代が私たちに与えた新しい習慣のようなものだと思います。ところが、当時は昔の人の言い伝えによって、手と身を洗うことは、衛生の問題ではありませんでした。ユダヤ人の独特な信仰上のことでした。マルコによる福音書7章4節を見ると、「市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をしない」と書かれているでしょう。このようなことを行う理由は、市場のような混雑した場所では、異邦人との接触があるからです。昔の人の言い伝えでは、異邦人たちとの接触も汚れることとして思っていたので、外出して帰ったら、手を洗うこと、つまり清めの儀式を行うことを命令していました。しかしイエスさまの弟子たちは、そのようにしなかったので、エルサレムから来たファリサイ派の人々と律法学者たちは、弟子たちの行動を指摘したのです。そしてこれによって、イエスさまと彼らの議論が起こります。

 イエスさまはこのような彼らの偽善に「あなたがたは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである(マルコ7:9)」と言われます。神の掟は、人を汚すものとして思っていないからです。ユダヤ人も異邦人も、みんなが神さまの被造物であり、愛される子供です。しかし、エルサレムのファリサイ派の人々や律法学者たちは、昔の人の言い伝えを重んじ、弟子たちの行動を指摘し、異邦人を汚す人として取り扱いました。イエスさまは、彼らの指摘が正しくないということをおっしゃって、家にお帰りになります。そしてゲネサレトから離れ、異邦の地域であるティルスに行かれます。その場所で、今日の福音書の物語、シリア・フェニキアの女の話が始まったのです。

 イエスさまは、助けを求めるために、ご自分のところに来た異邦の女のお願いを断ります。そして、まるで昔の人の言い伝えに従う人々のように行動されます。しかし、これがイエスさまの本音ではなかったでしょう。私の考えでは、イエスさまは弟子たちに昔の人の言い伝えが何なのかを教えてくださるために、否定的なスタンスを取ったのだと思います。マルコによる福音書の著者も、読者たちに昔の人の言い伝えがどんなに悪いものかを伝えるために、これを記録したのだと思います。イエスさまは、当時の言い伝えに縛られていたユダヤ人のように、異邦の女を犬のように取り扱いました。しかし、異邦の女は、このようなイエスさまの言葉にも帰りませんでした。むしろ犬と呼ばれたことさえも認め、犬も主人の助けを受けると言います。これが今日の福音書28節の言葉です。「女は答えて言った。『主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
 これにイエスさまは、「それほど言うなら、よろしい(29節)」と言われます。「それほど言うなら、よろしい」という言葉の意味は何でしょうか。私はこの言葉がイエスさまの意図を示してくれる言葉だと思います。言い伝えというものはどんなに無駄なものなのか、汚れたと思われる異邦人の信仰がどんなに素晴らしいかを表すための言葉です。今日の福音書では書かれていませんが、同じ事件が書かれているマタイによる福音書15章では、イエスさまはこの女に「あなたの信仰は立派だ」と言われます。言い伝えを守ろうとしているユダヤ人よりも、異邦の女の信仰がより大きいということでしょう。そしてイエスさまは女の願いを聞いてくださり、悪霊に取りつかれた女の娘は癒されました。

 女の娘を癒されたイエスさまは、他の場所に移動なさいます。ところで、この移動経路が珍しいのです。今日の福音書31節の言葉です。「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。」イエスさまはゲネサレトから、シリア・フェニキアの女と出会ったティルスに行かれました。では、またガリラヤに行くためには、ゲネサレトの方向、南の方に戻ったらいいですね。しかし、イエスさまは、北の方のシドンという地域に行かれます。そしてガリラヤを通り過ぎて、デカポリスまで行かれ、またガリラヤに戻られます。本当に理解しにくい移動経路です。もし目的地がガリラヤだったら、このように移動するはずはありません。では、イエスさまは、なぜこのように移動なさったのでしょうか。

 31節に出てきた三つの地域である、ティルス、シドン、デカポリスは共通点があります。すべてがユダヤ社会に隣接している異邦の地域だったということです。今日の福音書には、記録されていませんが、イエスさまは、この三つの異邦地域で多くの日々を送られたと思います。そして、多くの異邦人と接触なさったでしょう。昔の人の言い伝えによると、イエスさまは汚れるしかありません。手や身を洗う清めの儀式を行っていないからです。しかし、イエスさまは汚れませんでした。むしろガリラヤに戻られたイエスさまは、耳が聞こえず、舌の回らない人を癒されました。昔の人の言い伝えが間違っていたことを、異邦人を差別するのが神の御心と合わないことを、イエスさまは自ら教えてくださったのです。
そして今日の福音書34節で、イエスさまはこう言われます。「天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。」私はこの言葉を読んで、この言葉は、単に病者を癒すことを書いたのではないと思いました。イエスさまは、福音に耳を傾けていない人々、神さまの掟よりも昔の人の言い伝えに縛られている人々に、「開け」と言われているのです。自分だけの信仰に陥って、自分だけが正しいと思っている人たちに、「開け」とおっしゃるのです。開けないと、聞かないと、真理については分かりません。福音が聞こえても、受け入れることはできません。そして私たちも、自分の考えや主張だけに陥るなら、いくらでも彼らのようになるだろうと思いました。イエスさまは私たちが福音の前に開いているように願われます。いつも神さまの言葉に耳を傾けている皆様になりますように。昔の人の言い伝えよりは、人を愛する皆様になりますように、主の御名によって祈ります。アーメン