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聖霊降臨後第25主日 ヨハネによる福音書11:32~44

 今日の福音書は、ラザロの死と復活についての物語です。死者を復活なさったイエスさまの奇跡は驚くべきことです。しかし今日は、その奇跡よりはイエスさまの感情にフォーカスを合わせようと思います。福音書は、ほとんど12弟子たちの話が主になっています。だから一般的に、イエスさまの弟子たちは12人だと知られていますが、イエスさまの弟子たちは、12人より多かったのです。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙15章で、復活したイエスさまは500人以上の弟子たちに現れたと言います。イエスさまには12人だけではなく、他の多くの弟子たちもいたということです。今日の福音書に登場している三人、マルタ、マリア、ラザロも、イエスさまの弟子たちでした。彼らはベタニアという所に住み、ベタニアはエルサレムに近い町でした。

ある日、イエスさまにラザロの状態が緊急だというニュースが伝えられました。そしてイエスさまがベタニヤに着かれた時は、ラザロはこの世を去った状況でした。イエスさまを初めて迎えた人はマルタでした。マルタは、イエスさまがここにいてくださいましたら、ラザロは死ななかったのにと言います。ここでイエスさまは、マルタにラザロの復活について言われました。しかし彼女は、イエスさまが自分を慰めるために最後の日の復活を言われたのだと思いました。そして彼女は、姉妹マリアを呼び、イエスさまを迎えさせます。マリアがイエスさまを迎えに行くと,マリアを慰めていた人々も彼女を追いかけました。今日の福音書はこの場面、マリアがイエスさまと出会う場面から始まります。32節の言葉です。「マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに』と言った。」

マリアもマルタのように「イエスさまがここにいてくださいましたら」と言います。そしてマリアとマリアと一緒に来た人々は、イエスさまの前で泣き始めました。この言葉と彼らの泣いたことは、イエスさまの感情に触れたと思います。33節にイエスさまは彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮したと書かれているからです。家族や友達のをの前にして泣くのは、当然なことです。しかし、なぜイエスさまは泣いている人々を御覧になり、憤りを覚えて興奮なさったのでしょうか。ここについての解釈はまちまちです。ある学者は、イエスさまが憤りを覚えたのは、弟子たちがご自分の教えを忘れたからだと言います。死によってイエスさまがどんな方であるかを忘れ、復活の教えさえも忘れてしまったので、イエスさまが憤りを覚えたというのです。ある学者は、弟子たちが信仰のない人のように悲しんでいたので、イエスさまが憤りを覚えたと言います。マルティン・ルターは、この言葉を「心に憤りを覚え、悲しまれた」(Er ergrimmte im Geist und betrübte sich selbst)と解釈します。 NIVの英語聖書では、この言葉が「深く心を動かされ(deeply moved in spirit)心配した(troubled)」と書かれています。

このようにイエスさまの心境については、様々な解釈があります。それで私は、この様々なコメントを読んだ後、この言葉について黙想してみました。なぜイエスさまが憤りを覚え、興奮したのか。果たしてそれが不信仰のためだろうか、それとも、解釈の違いから来ることだろうか。いろいろ考えた後、再び今日の福音書を読んだとき、私の目は、35節の言葉で止まりました。35節にはこう書かれています。「イエスは涙を流された。」
憤りを覚えられ、興奮されたイエスさまは、なぜ涙を流されたのでしょうか。腹が立ちすぎて、ご自分の心を持て余したからでしょうか。そうではないでしょう。私はイエスさまが人々の心に「共感」なさったのだと思います。もちろん人々の不信仰もあり、イエスさまの教えを忘れてしまったこともあったでしょう。しかし、その場の死の前で復活を覚え、安定を取り戻す人は、多くはないと思います。死の前では、ほとんどの人が力を落として、悲しんで泣きますよね。それでイエスさまも涙を流されたのだと思います。家族を失った姉妹の前で、友人を失った人々の前で、イエスさまは涙を流されました。私たち人間の生活に共感され、私たちの目から死を見てくださったのです。

一部の人々は、神は冷たくて冷静なので、人の事に頓着しないと言います。神の基準を持ってすべてのことを判断するから、私たち人間のこまごましたことまでは、見ていないと言います。しかし、今日の福音書は、そうではないと言います。私たちのすべてのことに関心を持たれ、死を目の前に置いた私たちの心も、共感してくださると言います。イエスさまは、私たちの死に涙を流される方であり、私たちの悲しみをよく理解してくださる方です。そのような方が私たちの救い主であり、私たちの神であるのです。だから私たちは、イエスさまを信じて従っています。その方が力を持っているから、すべてを征服して治めるからではなく、その方が私たちのことを深く見てくださり、私たちを導いてくださるからです。詩編23編2節の言葉のように、「主は、わたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」ので、私たちは、イエスさまに従っているのです。私たちが信じて伝えているイエスさまは、このような神様です。

今日の福音書に戻りましょう。イエスさまの涙を見た人たちは、お互いに話し合います。「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか(36節)。」その中に、イエスさまを恨む一部の人々もいました。37節の言葉です。「しかし、中には、『盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか』と言う者もいた。」私は、イエスさまがこのすべての人々の心に共感されたと思います。死への恐れと悲しみがご自分に向かう恨みになったのですが、イエスさまは彼らを叱ったり、彼らに憤りを覚えたりしませんでした。38節で、イエスさまは再び心に憤りを覚えたと書かれています。しかし、この憤りは人々に向かったものではありませんでした。イエスさまはこの憤りをもってお墓に行かれました。人々にお墓をふさがれている石を取りのけなさいと言われました。マルたが止めましたが、イエスさまは神さまの栄光を見られると言われました。そして死んだラザロを大声で呼ばれました。すると、ナザロがお墓から出てきました。

イエスさまは、私たちが死の前で力を落として、怒るように、死に対して怒られました。私たちの心を十分に理解され、私たちの心に共感されて涙を流されました。そして死者をお墓から呼び出しました。これは、私たちがどのように死から復活するかを教えてくださることだと思います。神さまがエジプトからイスラエルの民を呼び出されたように、イエスさまは私たちを死から呼び出されるのです。神さまがこの世を御言葉によって創造されたように、イエスさまは御言葉によって死の中にいる人々を復活させるのです。だから、主の時が至ったら、私たちみんなは復活され、死は、もはや私たちを縛ることができなくなります。40節にイエスさまはマルタにこう言われます。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」信じる者は必ず神さまの栄光を見られるのです。これが、今日の福音書が私たちに教えてくれるメッセージだと思います。私たちの両親、先祖たちと共におられたイエスさまが今、皆様と共におられます。この驚くべき御恵みが皆様を死から自由にしますように、私たちを縛っているものから自由にしますように、主の御名によって祈ります。アーメン