福音は荒れ野から

待降節第3主日 ルカによる福音書3:7~18

 先月、全聖徒の日の礼拝が終わった後、墓前礼拝がありました。墓前礼拝の時、北澤先生がフィリピの信徒への手紙3章20節の言葉をもって、説教してくださいました。フィリピの信徒への手紙3章20節には、こう書かれています。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。」北澤先生は墓の前にいる私たちに「皆さんは二つの国に属している」と言われました。そして私には、故郷が三か所になったかもしれないと言ってくださって、私は、守らなければならない法律が増えたなあと思いました。北澤先生の言葉のように、私たち信徒は、二つの国に属しています。現在私たちが生きているこの国と神の国です。だから私たちはこの二つの国の影響を受けて生きています。

ところが、この二つの国の法律への認識は、はっきりと違います。 私たちが現在生きているこの国は、共同生活のために法律を守ることを要求し、強制することもあります。それで、法律を守らないと、これに対する対価を受けます。私も交通法規を守らなかったので、スピード違反で二回、罰金を払ったことがあります。しかし、この世の法律は、法律に対する心までは強制していません。つまり、法律を守るなら、法律に対してどんな気持ちを持っていても構わないということです。一方、神の国の法律は違います。法律を守ることを求めていますが、強制はしていません。しかし、法律に対する心を求めます。神の国の法律を守って従うふりをするのではなく、心から守って従うことを望んでいるのです。

今日の福音書第7節で、洗礼者ヨハネは、自分のところに洗礼を受けるために出てくる群衆を叱ります。洗礼を受けに来るということも不思議なことですが、来る人々を叱ったということはもっと不思議なことです。なぜなら、当時の文化と律法によると、ユダヤ人たちは洗礼を受ける必要がなかったからです。洗礼は異邦人がユダヤ教に改宗するときに受けるものでした。ですから、生まれながらのユダヤ人であった彼らには、洗礼が必要なかったのです。それにもかかわらず、洗礼者ヨハネは悔い改めの洗礼を伝え、人々は洗礼を受ける必要がありませんでしたが、ヨハネに洗礼を受けることを願いました。ところで、洗礼者ヨハネは、洗礼を受けるために来た人々を叱りました。なぜでしょうか。彼らがこの洗礼を法律を守るように扱ったからだと思います。7節で洗礼者ヨハネはこう言います。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」

洗礼者ヨハネのこの言葉は,当時ユダヤ人の信仰がどうだったかを示していると思います。律法学者たちは、人々が律法を守ることを強制し、人々は、神の言葉を法律のように守っていました。神様の言葉に形式的に従ったというのです。ですから、ヨハネの洗礼に対する心得も同じだったと思います。洗礼の必要性や意味よりは、ただ万が一に起こるかもしれないことに備えて、洗礼を受けに来たのだと思います。それで洗礼者ヨハネは、彼らの心得を叱り、彼らにふさわしい実を結べと言います。8節の言葉です。「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」

「我々の父はアブラハムだ」という言葉の意味は「神さまとの契約」を表します。この契約は、創世記15章と17章に書かれています。契約の内容は、神さまがアブラハムを繁栄させ、子孫を守り、救われるということです。ユダヤ人たちはこの契約の証を体に刻みました。これが割礼です。しかし、洗礼者ヨハネは、体に刻まれた契約は有効だとは言いません。契約は一方的なものではないからです。単に契約の証を体に刻んだからといって、一方的に契約の履行を要求することはできません。お互いが契約にふさわしいことをしなければならないでしょう。それで洗礼者ヨハネは、悔い改めにふさわしい実を結べと言ったのです。法律を守っているように見せるということではありません。心から神さまの法律に従いなさいというのです。

しかし、洗礼を受けに来た人々は、この言葉を簡単には受け取れませんでした。彼らにとって律法を守って行うことは、みんな目に見えなければならなかったことだったからです。だから群衆は、洗礼者ヨハネに尋ねます。10節の言葉です。「そこで群衆は、『では、わたしたちはどうすればよいのですか』と尋ねた。」すると、洗礼者ヨハネはこう答えます。「ヨハネは、『下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ』と答えた(11節)。」

洗礼者ヨハネの答えは単純です。分けるということです。ここで服は、キトン(chiton)といいますが、これはヒマティオン(himation)という上着の中に着るものです。服よりは布に近い服ですが、当時のパレスティナは、昼と夜の気温の差が激しかったので、多くの人はキトンをスペアに持っていました。キトンすらなくて寒さにブルブル震っている人がいれば、それを分けるということです。食べ物も同じでしょう。食べ物がない人に食べ物を分けてやること、これが洗礼者ヨハネが言った悔い改めにふさわしい実です。ふさわしい実と言って何か特別なことを行うのではありません。自分の生活の場で分けて施すこと。それが悔い改めの実であり、それを行う人が神の子なのです。

このような洗礼者ヨハネの答えに、徴税人も、兵士も自分たちがどうすれば良いのかを尋ねます。ここで語られている徴税人や兵士は、同族に嫌われた人々です。当時の徴税人はローマのための税金を別に納め、兵士はユダヤを横暴に治めたヘロデの兵士たちだったからです。しかし、洗礼者ヨハネは、彼らに無理なことを要求はしませんでした。悔い改めにふさわしい実を挙げて、仕事をやめさせたり,ヘロデに反逆させたりしたわけではありません。「規定以上のものは取り立てないこと」と、隣人に被害を与えず、「自分の給料で満足すること」を要求しました。これが彼らにとって、悔い改めにふさわしい実でした。

時々私は、マスメディアを通して私たちが生きているこの世の法律の冷たい面を見ています。法律が力のない法律の知識もない人々に強制したり、国が移民法を挙げて密入国者やビザの満了が過ぎた移民者たちを追い出したりするのを見たことがあります。多分、そんなことはないと思いますが、私もビザの延長を受けられなかったら、ここでしていることをあきらめて、韓国に戻らなければなりません。国と国の間も同じです。強大国が自分の利益のために様々な法律を挙げて、弱小国の権利を奪うことが起きていることは、皆様もよくご存知だと思います。このようなことを見ると、果たして法律は公平に行われているのかという疑問が生じます。法律は本当に冷たくて怖いという気もします。しかし、洗礼者ヨハネが言っている神の法律、悔い改めにふさわしい実は違います。神の法律は、無理な要求をしていません。私たちができることを求めます。私たちが心から神さまのことを行うことができるように私たちを導いてくださいます。そして強制していません。

今日の福音書18節にはこう書かれています。「ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。」今日の福音書は、洗礼者ヨハネの勧めが福音だと言います。悔い改めにふさわしい実は、結びづらいものではありません。イエスさまもマタイによる福音書11章30節で、「わたしの軛は負いやすい、私の荷は軽いからだ」と言われました。時々、世の中の法律は冷たいかもしれませんが、神の法律はいつも温かいです。それで、私たちはこの世の中で神さまの法に従い、心に平安を受けることができるのです。荒れ野から聞こえてきたこの福音が皆様に良い実を結ばせますように。神さまの法律がみんなの希望になりますように、主の御名によって祈ります。アーメン