婚礼の物語での宝探し

顕現後第2主日 ヨハネによる福音書2:1~11

 牧師によって説教についての考え方が違うと思いますが、私は、説教にも面白いところがなければならないと思います。それで私の説教では、聖書の言葉だけではなく、ドラマや映画の話、笑い話や私のエピソードなど、生活の中で起こっている話を説教のテーマに合わせて話しています。でも、面白いことは、私の意図とは違う反応が出てくる時がかなりあるということです。私は笑い話をしたのに、聞いている方々はその語を真剣に受け入れるとか、誰でも分かるだろうと思って話したことわざが皆様にとっては馴染みのないものだったとか、ということがあります。なぜこのようなことが起きるのかと考えてみました。もちろん私の説教が上手ではないという面もありますが、皆様と私が持っている文化や環境の違いがあるからだということに気づきました。今はよく慣れましたが、それでもまだ私は、お正月といえば太陽暦の1月ではなく、陰暦の1月が思い浮かびます。日本では、クリスマスが休日ではないということも、何度も忘れてしまいます。これだけでなく、生活的な面や習慣、会話などでも違うところが多いです。このことによって、誤解が起こったこともあります。今は大丈夫ですが、しばらくの間はそのことによって胸を痛めていました。文化と生活の違いというものは、本当に克服しにくいものだと思います。

ところが、この違いによる大変さは、私だけにあるものではありません。私たちに与えられた神様の御言葉、聖書でも、このようなことを発見することができます。文化、伝統、時代などによって、御言葉の意味を理解しにくいことがあるというのです。しかも、今の私たちとずいぶん離れている、それも2000年前の言語で書かれた聖書を読んで理解するというのは、本当に難しいことだと思います。それで私たちは、聖書を読み、毎週説教も聞いていますが、その意味について気付かないまま過ぎることが多いのです。私たちと多くの違いがあるからですね。今日の福音書の言葉も同じだと思います。当時の文化を知らないと理解しにくい言葉です。特に当時のカナという地方の結婚式で起きたことなので、私も知らないことが多いです。しかし、今日の福音書の意味が何なのかを中心にして、皆様と共に御言葉を分かち合おうと思います。神さまが私たちに知恵を与えてくださいますように願います。

今日の福音書の背景は結婚式です。皆様と私が初めて出会ったとき、私はシングルでしたが、今は結婚してからもう10年以上になりました。時間は本当に速いですね。今日の福音書の婚礼には、イエスさまだけでなく、イエスさまの母、弟子たちも招かれました。イエスさまに関わる人々がそこにいるということを見ると、婚礼の主宰がイエスさまとお馴染みの人とか親戚だったと推測することができます。また、3節を見ると、イエスさまの母が婚礼のことに積極的な様子を見せているということが分かります。3節の言葉です。「ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。」イエスさまの母、すなわちマリアは、婚礼のぶどう酒がなくなったことが分かり、それをイエスさまに言いました。どうしてマリアは、このことが分かったのでしょうか。ある人は、このカナの婚礼がイエスさまの親戚の婚礼であったので、マリアがぶどう酒の状況が分かったと言います。他の人は、マリアはこの婚礼の飲食を担当している人だったので、ぶどう酒のことが分かったと言います。詳細なことについては書かれていないので、よく分かりませんが、マリアはぶどう酒がなくなったことが分かり、これをイエスさまに言いました。

当時、ユダヤ人の婚礼でぶどう酒は非常に重要なものだったそうです。ユダヤ人の婚礼は、約1週間ほど行われていましたが、ぶどう酒と食べ物が足りないようにすることが大事でした。もしぶどう酒や食べ物がなくなって、婚礼の雰囲気が壊れたら、それは、婚礼の主人にとって大きな恥でした。そしてガリラヤのカナは、小さな田舎の町だったので、この婚礼が町の祭りのように行われた可能性があります。お酒と料理がない街の祭りはないでしょう。それでぶどう酒が無くなることは大きなことであり、マリアは、このことをイエスさまに言いました。しかし、イエスさまの反応は微妙でした。イエスさまはこのように答えられました。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません(4節)。」

イエスさまの答えは、意外と冷たかったんです。しかし、この文章についての学者たちの意見によると、この文章は直訳に近いから、文章が自然ではないということです。それで、この文章を意訳して整える必要があると言います。ある学者たちは、この文章を簡略化して「何事でしょうか」くらいで解釈することもあります。このカナの婚礼の時期を調べると、イエスさまは公的な生涯に入ったばかりです。そして公的な生涯の間は、人間イエスの意志ではなく、メシアとして、神さまの導きに従ってお働きになりました。そのため、イエスさまはマリアの個人的な要請を受け入れなかったのだと思います。メシアとしての活動が始まったからです。

するとマリアは、このすべての状況をイエスさまにゆだねます。5節の言葉です。「母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。」これは、マリアが自分の要請ではなく、イエスさま自らが判断なさるように、婚礼が神さまの導きによって進められるようにゆだねたのだと思います。私たちキリスト教でも同じですが、ユダヤ人にとっての結婚は、神さまの命令であり、祝福でした。創世記2章18節と24節には、結婚に対する神さまの言葉がこう書かれています。創世記2章18節には、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と書かれており、24節には、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」と書かれています。これは、神さまが結婚をどれほどお大事に思われ、祝福されるかを示している言葉です。それでマリアは、婚礼のすべての状況をメシアとして公的な生涯を送っているイエスさまにゆだねたのだと思います。そして今日の福音書に書かれているように、イエスさまはこのカナの婚礼の問題を解決してくださいます。イエスさまは水がぶどう酒になるようにしてくださり、宴会の世話役は花婿を呼び、良いぶどう酒を置かれたと言いました。今日の福音書の最後の節では、このしるしはイエスさまが最初に起こされたものであり、弟子たちはこれを見てイエスさまを信じたと書かれています。イエスさまのしるしが婚礼だけでなく、弟子たちの信仰も完成させたのです。

そしてこの婚礼のしるしには、イエスさまがメシアとして公的に行われたことも含まれています。これは、私たちが気づかずに通り過ぎるものでもありますが、イエスさまは何を持ってぶどう酒をお造りになったのかということです。6~7節を見ると、イエスさまは、清めの儀式に用いられている水がめに水をいっぱいに入れなさいと言います。そしてその水がぶどう酒になるようにしてくださいました。なぜイエスさまは他のかめではなく、清めに用いられている水がめを使われたのでしょうか。ただそのかめが大きかったので、使ったのではないでしょう。イエスさまは、真の清めが何なのかをご自分の最初のしるしによって示されたのです。清めの儀式に用いられる水ではなく、聖餐に用いられるぶどう酒、つまりご自分の血が人を清めてくれるというのです。また、これは清めの方法が新しくなったということを示していることでもあります。過去の清めの儀式は手を洗うことでした。手を洗うことによって汚れたものから、異邦人との接触から清められたとユダヤ人たちは信じました。しかし、清めに用いる水がぶどう酒に変わった後には、洗うのではなく、飲むようになりました。これ以上、外部のものに接触するということでは、汚れないということです。そして、清めの儀式のように、外部的なものだけをきれいにすることでもありません。主の血を飲み、聖餐の言葉を信じることだけで、私たちは、私たちの内部の汚れたものも、きれいになるのです。

婚礼の世話役はこれを置いてこう言います。10節の言葉です。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」この言葉の意味が何なのかは、皆様も推測していると思います。イエスさまは、悪いものではなく良いもの、過去のものではなく新しいものを婚礼を通して表され、私たちに与えてくださいました。これによって、私たちは聖餐と信仰の中で清められるのです。そしてもう一つ、皆様はキリスト教の中で婚礼がもっている意味を知っておられると思います。福音書の中で花婿はイエスさまであり、花嫁はイエスさまに従っている人々を指します。それでイエスさまは、婚礼の所で清めの儀式に用いられる水をもってぶどう酒をお造りになったのではないでしょうか。清めのことは単に手を洗うことだけにあるものではありません。イエスさまに従い、聖餐の約束を信じる人だけが清められるのです。そしてこの婚礼のしるしがイエスさまの公的な生涯の最初のしるしだったということも大きな意味があると思います。

それ以外にも、今日の福音書には、多くの宝の言葉が隠されています。より詳しいものは、次の機会に掘ることにしましょう。イエスさまは、私たちの人間のために水からぶどう酒をお造りになりました。そして、この言葉を信じて飲む人は、清められ、永遠の命を得られるのです。今日の福音書の最初の言葉は「三日目に」という言葉です。これも意味があるでしょう。「三日目に」 すべてのことを成し遂げられたイエスさまが皆様と共におられますように。私たちに聖餐と信仰の祝福があふれますように祈ります。アーメン