実現された主の恵みの年

顕現後第3主日 ルカによる福音書4:14~21

 皆様、野球はお好きでしょうか。最近、野球選手の中では、天才と呼ばれる選手が一人います。皆様もよくご存じの大谷翔平選手です。今まで多くの選手たちがアメリカのメジャーリーグに進出していますが、この選手ほど目立つ選手はあまりいなかったようです。大谷選手の特徴は、ピッチャーとバッター、両方とも上手にやるということです。それも最高のリーグと呼ばれるメジャーリーグで投打にわたって大活躍をしています。それで人々は、彼のことを二刀流だと言います。本当に素晴らしい選手です。ところが多くの人々は、大谷選手を見て、彼の天才性について話したり、彼がメジャーリーグで成功できた理由を東洋人らしくない体格と筋力にあると解説しています。もちろん彼が世界的な選手になれたのには、持って生まれたものがあるでしょう。しかし、彼が誰よりも一生懸命努力し、訓練したということも事実です。彼はMVPを受賞した後、インタビューで記者がお祝いパーティーについて聞いてみると、「明日、訓練があるから早く寝なければならない」と答えたたそうです。このような節制と努力があったので、彼は最高の選手になることができたのだと思います。そして私は、この観点を持って今日の福音書とつなげてみようと思います。

今日の福音書は、イエスさまがナザレに行かれ、イザヤ書に書かれている主の恵みの年のことを告げられ、この言葉が実現したと言われたことが中心です。しかし、このお告げがある前に何が起こったのかを調べることも大事だと思います。イエスさまはこの主の恵みの年を告げる前に二つのことを体験なさいました。一つは悪魔に誘惑されたことであり、もう一つはガリラヤの諸会堂で教えられたことです。そして会堂でのことで、イエスさまはガリラヤの人々に尊敬されました。ところが、この二つのことには、共通する部分が一つあります。悪魔の誘惑と会堂での教え。 この二つのことに共通する部分は何でしょうか?それは、この二つのことに神様の言葉、つまり聖書が使われたということです。

悪魔の誘惑には、イエスさまは申命記8章と6章の言葉を使って誘惑に勝ちました。そしてガリラヤに来られ、会堂で御言葉を教え、それによって尊敬されました。すなわち、イエスさまは聖書について非常に詳しかったというのです。では、イエスさまは、どうして御言葉をよく知っておられたのでしょうか。神の子だから先天的によくご存知だったのでしょうか?もちろん、神の子として、神さまと御言葉について多くのことを知っておられたと思います。ところが、今日の福音書であるルカによる福音書は、これに関する面白い事件を一つ記録しています。それは少年イエスの話です。ルカによる福音書2章では、イエスさまの12歳の時、神殿で起きたことが書かれています。皆様もよく知っておられる話です。神殿から帰路についたイエスさまの両親は、イエス様を見つけることができず、神殿に引き返した話です。イエスさまの両親が神殿に戻ったとき、イエスさまは境内の学者たちと一緒にいました。46節の言葉です。「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。」

私はこの言葉を読んで、イエスさまも御言葉を学ばれたということが分かりました。私たちは、イエスさまと言えば、イエスさまの神的な部分、神性を先に思い出します。神様の子、救い主、奇跡を起こして死んだ人も生き返らせた方など。人としてはできないことをなさったことに関心が集中します。しかし、イエスさまはこのような姿だけを持っておられたのではありません。御言葉を学ばれ、祈られ、お働きによって疲れられ、泣かれ、ご自分の死の前には恐れられたこともありました。これを学者たちは、イエスさまの人間的な部分、イエスさまの人性と言います。そしてこのことによって、イエスさまは完璧な人間であったと言います。私たちと同じ人間だったということですね。神の子として生まれた方なので、悪魔の誘惑に勝つことができ、会堂で教えることができたというわけではないということです。もしそうだとしたら、少年イエスについての話は書かれていなかったでしょう。私たちのような人間として生まれ、私たちのように必要なことを学ばれ、身につけられたのだと思います。神様の言葉や信仰も同じでしょう。神様の言葉を学ばれ、黙想され、祈られることによって、霊的な成長を成し遂げられたのだと思います。それで、誘惑に出会った時、御言葉によって勝たれ、その御言葉を教えられて多くの人々に尊敬されたのです。

今日の福音書16節は、このことを裏付けています。16節にはこう書かれています。「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。」16節は、イエスさまがいつものとおり、ナザレの会堂で聖書を朗読なさったと語ります。そしてイエスさまは、イザヤ書の言葉を読まれ、この言葉をもって教えられます。

「いつものとおり」という言葉で、私たちは、イエスさまが公的な生涯を始める前にも、このように聖書を朗読され、教えられたということが分かります。イエスさまは、長い間、人々の前で聖書を朗読され、教えられました。このようなことによって、イエスさまは良い先生として成長され、聖書と多くの教えの中から神の御心がお分かりになったのだと思います。それで、「霊の力に満ちて」ガリラヤに帰られた時、イエスさまの評判がガリラヤ一帯に広まり、尊敬を受けられたのです。

このような人々の反応の中で、イエスさまはご自分の故郷に行かれます。そして、安息日に会堂で「主の恵みの年」についての言葉(18節)を朗読なさいます。この言葉は、イザヤ書61章の言葉で、救いと回復についての言葉です。預言者イザヤは、バビロン捕囚になった人々に向けて、神さまの救いと回復があることを預言します。「神さまが救われる」というこの預言は、当時、捕虜生活をしていたユダヤ人たちに大きな希望を与えたでしょう。イエスさまは、この預言の言葉をご自分が育ったナザレの会堂で朗読なさいました。そして21節で、この言葉が実現したと言われます。このイザヤの預言とその預言が実現したという言葉は、良い言葉ですね。しかし、この言葉をナザレの人々は受け入れませんでした。

21節の言葉を最後にして今日の福音書は終わりますが、今日の福音書の次の言葉には、イエスさまとナザレの人々との議論と反対が書かれています。イエスさまが言われた「実現した」という言葉が気になったからでしょう。彼らにとってのイエスさまは、メシアや預言者になれない大工に過ぎない人だったのでしょう。ところが、なぜイエスさまは、この言葉を選び、この言葉が実現したと言われたのでしょうか。ご自分を預言者やメシアだと言われた場合、ご自分が育ったナザレから反対されることがお分かりにならなかったのでしょうか。ガリラヤでとったご自分の評判が消え去るとは思われなかったのでしょうか。私は、イエスさまはこれらのことをすべて知っておられたと思います。しかしイエスさまは、神さまの御心を語られることを躊躇なさいませんでした。これは、イエスさまが神さまの働きを本格的に始められたことを示すことだと思います。ご自分を人々の前で示され、これが主の恵みの年であることを知らせること。人々の評判や顔を見るのではなく、神さまの顔を見ること。これもイエスさまがメシアとしてしなければならなかったことでした。それで、イエスさまはご自分をよく知っている人々の前で、ご自分がメシアであることを示されのだと思います。

自分のことを示すことは、簡単ではないと思います。特に謙遜が求められている社会では、恥ずかしいことになるかもしれません。しかし、これが神さまの御心を示すことなら、避けてはならないでしょう。私たちが福音を伝えることも、これと同じだと思います。私たちの文化の中では、福音を伝えることは簡単ではありません。信仰を勧めるのは、迷惑を掛けることのようであり、これによって自分の評判も悪くなるようですね。私も同じです。牧師である私も、福音を伝えることは容易なことではありません。しかしこれは、私たちに任せられたことであり、私たちを通して示されるべきことです。だから私たちは、より御言葉を黙想し、学び、身につけなければなりません。イエスさまが霊的に成長なさったように、私たちも霊的に成長しなければなりません。そうすれば、いつかは私たちを通して主が示されるでしょう。霊的に成長した私たちは、私たちを縛っていることから解放されるのです。その間、見られなかったことが見えるようになり、私たちを圧迫するすべてのものから自由になるのです。このために、イエスさまは私たちの見本としてこの世に来られました。私たちのように神さまの言葉を学ばれ、身に付けられ、成長されました。そして、聖霊に導きに従い、主の恵みの年が実現したことを告げられました。この実現された恵みの年が私たちと私たちの隣人と共にありますように。神さまが私たちを導いてくださいますように、主の御名によって祈ります。アーメン