弟子への招き

顕現後第5主日 ルカによる福音書5:1~11

 皆さま、こんにちは。
私は、川崎元木ルーテル教会の山口卓也と申します。
今回も、動画を通して、お目にかかります。

それにしても、コロナウィルス。
大変な感染力ですね。
この先、どうなっていくのか。
過去の経験をいかすことが、まったくできない。
そんな状況で、多くの方の心が、不安定になり、お互いの愛が冷えていっています。
ですが、いのちとは、決して、私たちの努力でキープするものではない。
あなたをお造りになられた神が、あなたを愛し、果たすべき役割、使命というものをお与えになっておられる。
だから、今、この地上に生かされている。
信仰者は、そのような確信を持って生きるよう、招かれた存在ではないでしょうか。

では、神さまの使命に生きる。
イエスさまの弟子として生きるとは、どのようなことなのでしょう。
ご一緒に学びつつ、主に礼拝をお捧げしてまいりましょう。
前回の聖書箇所で、皆さんは、イエスさまが、
故郷ナザレを訪問なさった。
その時のことをお読みになったかと思います。
イエスさまは、長い時間を過ごし、愛された故郷。
その人々の手によって、殺されかかりましたね。
 そんな、辛い経験の後も、主のお働きは、とどまることを知りません。
ご自分が救い主、メシアである。
その証拠として、病気の癒しや、悪霊の追い出しを
数多く行ってくださいました。
 その結果、イエスさまから、話を聞きたい。
病を癒してもらいたい。
そう願った人々が、群れをなして集まるようになったんです。

ルカによる福音書5章1節から11節
5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 5:10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

イエスさまが主に活動なさったのは、ガリラヤ地方。
そこにある有名な湖。それが、ガリラヤ湖です。
“ゲネサレト”という地域に面した湖という意味で、
別名、ゲネサレト湖とも呼ばれました。
その湖の漁師が、シモン・ペトロと、その仲間たちでした。
彼らは、すでにイエスさまの弟子となっていました。
ですが、それは生活の中のごく一部。
本業は、相変わらず、漁師だったんです。

さて、湖を背にして、立つイエスさま。
そこへ、大勢の人が押し寄せて来ました。
イエスさまに好意を持った人々であるとは言っても、かなり恐ろしい状況ではないでしょうか。
仰向けにひっくり返ったら、そのまま押しつぶされて、おぼれてしまうでしょう。
そこで、場所を移そうとなさったイエスさま。
ちょうど弟子のシモン・ペトロの舟があるのを
ご覧になりました。
 彼らが、網を洗っていたのは、網についたゴミを落として、翌日の漁に備えるためでした。

イエスさまは、シモンの舟に乗って、少し漕ぎだすように頼まれました。
こうすれば、群衆とは、程よい距離を置くことができて、安全ですね。
でも、イエスさまの声が、良く聞こえないのでは?とご心配でしょうか。
いえいえ。
ゲネサレト湖というのは、周りを山々に囲まれた、すり鉢のような地形になっています。
天然の音響効果で、群衆は、イエスさまの声を、はっきりと聞き取れたのです。

次に、シモン・ペトロに、言われました。
≪「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」≫
 しかし彼らは、すでに漁を終えて、網を洗っていましたよね。
ちょうど、皆さんが、お仕事や買い物から帰って、
お風呂も入って、さて寝ようとするか。
そんなタイミングで、外出を迫られたような状況です。
 そこでシモンは答えます。
≪「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、
何も とれませんでした。≫
ゲネサレト湖の漁師たちは、夜、暗い時に 魚を捕ります。日が昇って、明るくなると魚は取れない。
それが、彼ら漁師たちの常識でした。
プロの漁師が、精一杯がんばった。
だけど、何も取れなかった。
それなのに、イエスさまは、沖へ。
もっと深いところまで、漕ぎだすようにと命令されました。

(網を降ろしたところで、魚が取れるはずがないのに、先生は、漁に関しては素人だから、わかってないんだなぁ)
ペトロは、心の中で、ため息をついたかもしれません。
それでも、イエスさまは、尊敬する先生です。
しかも、この直前、ペトロは、姑の熱病を癒していただく経験をしています。
彼は、イエスさまのお言葉通りに行動することを選び取りました。
 結果は、予想もしなかった「大漁」でした。
ペトロは、不満ながら、とりあえず、言う通りにしただけです。
ですが、そんな彼に、イエスさまは、なんと大きな恵みによって、こたえてくださったことでしょうか。
シモンは、この大漁を前にして、恐れの感情に捕らわれました。
イエスさまから、沖に漕ぎ出すように言われた時、彼はイエスさまを先生と呼んでいます。
しかし、ここでは、主よ、となっていますね。
イエスさまは、自然界のすべてを支配しておられる神なんだ。
それを、この時、肌で感じ取ったからです。

旧約聖書を与えられ、唯一まことの神さまについて、良く知っているユダヤ人。
そのシモンが、普通の人間の足元にひれ伏す。
それは、あり得ません。
彼のイエスさまに対して取った態度は、まさに神さまに対する礼拝でした。
「主よ、わたしから離れてください。」
 ペトロの言葉は、ちょっと滑稽に聞こえるかもしれません。イエスさまは、ぺトロと一緒に、一そうの舟の中にいるのです。
ペトロから離れるためには、イエスさまが、湖に飛び込むしか、ないではありませんか。
ですが、聖なる神さまと出会った時。
思わず、こう反応してしまうのは、人間として、ごく当たり前のことなんです。
普通、人は、「あなたは罪人です」と言われると、「何も不正なことはしていない。失礼だ」そう、反発を覚えます。
しかし、神であるイエスさまと、み言葉を通して、あるいは、個人的な体験を通して出会う時、初めて、本当の意味で、罪が、わかります。
イエスさまの圧倒的な偉大さ、聖なるご性質に触れたなら、
「自分のように汚れた罪人が、あなたと同じ空間に存在することなどできない。どうか、私から離れてください」
そう、叫ばずにはいられなくなるのです。

実に、神さまの清さの基準に、私たち人間は、何とほど遠いことでしょうか。
しかし、失望してはいけません。
その罪の汚れを完全に清め、赦す権威をお持ちのお方。イエスさまがおられるではありませんか。
イエスさまは、言われました。
≪恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。≫(10節)
イエスさまは、ペトロたちから、離れませんでした。
むしろ、「恐れるな」。
そう言って、そばに招かれたのです。
私たちにとっても、イエスさまとの出会いは、最初は、嬉しいことばかりではなかったかもしれません。
罪を指摘され、プライドを砕かれた経験はありませんか。
ですが、イエスさまは、良い目的のために、そうなさるのです。
 名医が執刀する、外科手術と同じです。
必ず治る。必ず解決できる。
だから、イエスさまは、あなたの内側にある罪の病巣を指摘なさるのです。
 切られる痛みを経験しても、イエスさまは癒し主です。必ず、その傷を包み、神さまの前に、清い者として、新たに生まれさせてくださいます。
必ず、神さまにとって、役に立つ者となれるよう、導き通してくださるんです。
シモンを始めとする漁師たち。
彼らは、この時から、漁師の仕事を捨てました。
退職金も、失業保険もありません。
けれども、イエスさまご自身が、彼らの保障です。
やがて、彼らは、この時の大漁の体験と同じように、多くの魂を、神さまの元へと救い上げる。
そのような働き人となって行きます。
イエスさまのくだされる、ご命令。
私たちも、聖書を通して、いただいています。
時に、従いたくない。そんな思いがわき起こるかもしれません。
「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」
そう言って、終わりにするのでしょうか。
どうか、そこで終わらせずに、
「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」
こう答えていただきたいのです。
沖に漕ぎ出せ。
過去に経験したことがないこと。
うまくいきっこない、そう思えること。
そんなことをイエスさまは、お命じになるかもしれません。
しかし、イエスさまの命令は、決して無理難題ではありません。そして、無駄な骨折りに終わるものでもないのです。
皆さんにとっての、“沖”。それが、何であるのか。
聖書を通して、イエスさまが、お語りくださいますように。
そして、皆さんと、大宮シオンルーテル教会のお働きを通して、多くの方が、イエスさまを救い主として、信じ受け入れてくださいますように。
心より願っています。

お祈りいたします。
天のお父さま
 あなたのお名前を讃美します。
天地をお造りになった偉大な神であるお方。
あなたが、私たちと個人的に出会ってくださる。
それは、何という恵みでしょうか。
ペトロとその仲間たちが、イエスさまとの出会いによって、人生が変えられた。
そのように、今、大宮シオンルーテル教会の皆さん
おひとりおひとりと出会い、力づけてください。
豊かに祝福してください。
あなたと親しく交わり、御声に聞き従う。
そのような麗しい関係が、いつも豊かにありますように。
愛する家族、 友人たち、また、大宮の地に住む方々の魂の元に、イエスさまの尊い福音を告げ知らせる。
そのような働きに、これからも、用いてください。

まことの救い主。イエス・キリストのみ名によって
祈り捧げます。
アーメン