あなたの今を見つめて

顕現後第6主日 ルカによる福音書6章17~26

 ある小学校の先生が新しいクラスの担任になるごとにホームルームで「幸せになるためには何が必要か」という質問をしてきたそうです。生徒たちの答えで一番多かったものが「お金」という答えで、二十年以上変わらなかったそうです。
 世の中のいろいろの物事を見聞きしていれば「お金」と答えるのも仕方のないことですし、事実生きていればなんでもお金がかかる。出産にしても何十万と掛かりますし、お葬式にしても安いものではない車や家のローン、あくせく働く両親の姿、会話を聴けば、お金が必要だ、お金が一番大切なものだと思うことも仕方のないことです。
 大人たちがお金のために不正をはたらき、悪事に手を染めている社会の現実を知れば、子どもたちもお金のことに目の色を変えて執着する人間になっていくのかもしれないです。
 私は神学校に入る前からワールドビジョンという貧しい国の子どもたちを支援しているNGOを通じてアフリカのコンゴ共和国に住んでいる一人の少年を、毎月4,500円を送ってサポートしています。月に4,500円で生活できる国がある。日本のある政治家が何十万、何百万のお金を簡単に手にしているそのお金で何十年も生活できる人々がいる。コンゴの少年は学校で勉強できることを喜び、お母さんのお手伝いをしていますとか、友達とサッカーをして楽しい、クリスマスの劇をお祝いしましたという手紙を送ってくれます。
 神さまは私にコンゴの少年を通して、人が幸せになるためには何が大切なのかということを教えられているのだということも感じています。
 いい家があるわけでもない、いい車、いい服があるわけでもない、ゲームも携帯電話もない。けれど家族がいて友達がいる。私たちの、人の幸せというのは、私のことを必要としてくれている人がいること、あなたのことを大切に思ってくれている人がいること、あなたのことを愛している人がいるということを知ることではないでしょうか。

 さて、イエスさまは山を下りて平らなところにお立ちになりました。高いところから人々を見下ろすのではなく、平らなところに立ち、人々と同じ目線となり、まっすぐにこの世界の現実を見つめられるイエスさまの姿がそこにあります。
 欲望とエゴが渦巻く弱肉強食の競争社会。権力と富を持つものだけが笑い、弱くて貧しい者たちは涙を流している。そんな現実の世界とその世界でみんな幸せになりたいと思いながら懸命に、けなげに生きている人々をイエスさまはまっすぐに見つめています。
 
 イエスさまはいわれます、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」そして、「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたは慰めを受けている」と。この言葉に対して、この世界の価値観ではどうしても素直に聞き入れることができずに、人の心に反発する思いが生まれてしまうのも事実ではないでしょうか。
 貧しさが幸せのわけがないし、富んでいるものが不幸であるわけがない。貧しさは不幸であるし、富んでいれば幸せ。お金や食べ物、着る物などが沢山ある方が幸せだと思うでしょう。しかし、お金や物が私たちを幸せにしてくれるのには限界があるということも事実ではないでしょうか。そのことは、物にあふれた国に生きる日本人である私たちが一番よく知っていることだと思います。
ただ、貧しいからこそ本当に尊いもの、大切なものを見出すことができる、貧しさの中でこそ気づかされるものが必ずあるとイエスさまは人々に伝えているのではないでしょうか。

 この複雑で厳しい資本主義、競争社会のなかで、弱いもの貧しい者たちは涙を流しながら生きている。私はその辛い現実をまざまざと見せつけられた経験があります。
 私の両親は社員数名を雇っている小さな工場を経営していました。しかしバブル経済のあおりを受けて会社は倒産。年千万もの借金を抱え自己破産しました。
 私はこの目で母親が涙を流しながら数名の社員の前で地面に頭をつけている姿を見てとても切なくなりました。これが現実だ、神も仏もありゃしないと思いました。
 自分たちにはどうすることもできない限界があって、どうすることもできない現実がある。ほんとうにどん底に落ちたその時に、そこから見えてくるものはお金や地位や名声でつながっていた人々は離れていってしまうということ。でもそのような中でも慰めてくれる人がいた、励ましてくれる人がいた、祈ってくれる人がいました。神さまが与えてくれた家族がいて、友達がいて、教会の仲間がいたのです。そして両親の心の中にはずっと消えることなく絶えず神さまから与えられた信仰と、希望と、愛がありました。
だからといって、いい車に乗れるわけでもない、いい服が着れるわけでもない、いいものが食べられるわけでもない。ただ愛する家族がいて、友達がいて、仲間がいる。愛しくださる神さまがいる。パウロは言いましたⅠコリント13:7「愛は、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」と。

 イエスさまがみんなに伝えたいことは、人々が愛の貧しさの中にあるということ、愛の飢餓状態にこの世界があるということなのではないでしょうか。同じ人間でありながら貧富の差を生み出しているのはどうしてなのでしょう。
 イエスさまは愛の世界の価値を、み言葉を通して、ご自身のすべてを通して私たちに示されるのです。しかし、私たちはこの世界の価値観に捕らわれ、富や名声あるものをもてはやして、イエスさまの示す愛の価値観を退けようとしてしまう。その結果がイエス・キリストの十字架でしょう。ただ、しかしその十字架こそが、十字架上で痛み苦しむイエス・キリストの貧しい者になられた姿こそが神さまの私たちへの、この世界への限りない愛、無償の愛の証なのです。神さまは貧しい姿となり痛み苦しみ、傷つき倒れても私たちを支え、守り、助けたい、その思いが、その愛のかたちが十字架に現されているのです。
 人にはどうすることもできない厳しいこの現実の世界で傷つき倒れる者を神さまはほっておくことができない。貧しいものを見て見ぬ振りができない。痛み苦しむものの叫びを無視することのできない方なのです。
 神さまは聖書の言葉を通して、イエス・キリストの姿を通して、今飢えている人、今泣いている人、今現実の困難の中にある人にまっすぐ向き合い慰め、励ましその涙をぬぐおうとされます。イエス・キリストは今悲しんでいる人、不安と恐れとに苛まれている人の心に神さまの愛を届け、共に愛に生きて、共にすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐えてくださるのです。
 お金も、地位も、名誉も、痛みも、苦しみも、悲しみも永遠ではありません。いつまでも残るものは信仰と、希望と、愛です。そして最も大いなるものは愛です。キリストの愛を絶えず思い起こして、信じてすべてをゆだね、与えられている今をキリストの愛と共に生きる、神さまの愛に生かされるものでありたいと切に願うものであります。