仲間を大事にするなら、敵をも大事にしよう

ルカによる福音書6章27~38節

  1. 内海季秋(すえあき)という、日本福音ルーテル教会の総会議長もなさった優れた牧師がおられました。引退後、ここ飯能市に住まわれ、飯能集会を開いて、しばらく伝道活動をされましたから、ご存知のかたもおられるでしょう。
     わたしが高校生の頃、九州の大牟田教会に家族で属していましたが、内海牧師が講演に来られて、その後の交わりのときに、若い者が数人で、みんなを楽しませようと、「しゅわれをあいす」という子ども讃美歌を、先生ご出身の熊本弁で歌いました。
     「イエスさんなおどんばすいとんなはる イエスさんなおどんばすいとんなはる
     イエスさんな強(つ)よあんなはるけん えすか(こわい)こたなかばい」というのです。わたしたちを愛するイエスさまは強いから、わたしたちには恐れはない。
     会衆は手を打って喜びました。ところが、内海季秋先生にこっぴどく叱られたのです。聖書や讃美歌を、笑いものにしたらいけないと言われたのです。神聖な神の言葉である聖書、信仰の告白と、神への感謝と賛美を歌う讃美歌、みんな、しっかり身を正して受け留めなさいと諭(さと)されました。
     わたしが東京のルーテル神学校に入ったときです。内海先生の授業のレポートを書いて、マタイ福音書、マルコ福音書というふうにしたら、先生から、きちんと『マタイによる福音書』『マルコによる福音書』と書きなさいと叱られました。神学生のレポートは、学術論文とは違う。信仰の証し、表明だから、聖書は神の言葉である以上、その題にも意味がある。レポートなどにも、もとの聖書にあるように、略さないで書いておくことが大事だと教えられました。
     内海季秋先生は、奥さまが亡くなり、飯能を去り、息子の内海望牧師のところに移りました。一度お訪ねしたら、部屋に通され、本といえば五冊の聖書が机の上にあるだけでした。聖書の原書にあたるヘブライ語の旧約聖書、ギリシア語の新約聖書、それに、日本語、ドイツ語、英語の旧新約聖書です。それだけ。
     最晩年を、忠実に正しく聖書を読み、聖書だけに集中して生きる姿に感銘を受けました。
  2. 聖書に何が書いてあるかと言うと、わたしは何者かということ、そうして、わたしはいかに生きるか、生きるべきかということが記されているのです。内海季秋先生たちは、信仰を生活で告白するという姿勢がはっきりしていました。
    戦前からのクリスチャンの信仰と生活は、神の前に正しく、誠実に生きるという筋金(すじがね)がはいっていたのですね。日曜日に教会に行く。神さまの前に出るのだから、そのとき、服装は、下着からすっかり取り替えて、男だったらネクタイを締めたり、髪も整えて、きちんとしなくてはいけなかったのです。
     戦後、大勢の人が教会に来るようになりました。すべての人を歓迎するために、服装などはあまりやかましく言わなくなりました。牧師からして、聖壇に上がって説教したり司式をしたりするとき以外は、教会のみなさんと同じ格好、平服でいるようにしました。
     わたしも戦後の牧師ですから、なにごとにしても、みんなと同じだと、ある意味でルーズにしています。しかし、あるとき、年取った先輩の牧師が訪ねてきて、いろいろ昔の話を聞いていたら、戦前の牧師は、教会にいるときは、だれが来てもいいように、羽織、袴(はかま)でいたものだと言いました。
     わたしの方は、いいえ、現今の牧師は、庭掃除や草取り、会堂の雑巾がけなど雑用があって、盛装をしてはおれない、日々、作業着で教会にいますと答えたりしましたが、「なんと情けないやつだ」と言わんばかりに、さげすみの目で睨まれました。
  3. さて、ケセン語訳聖書というのが、二〇〇〇年頃から翻訳がすすめられて来ました。ケセン語というのは、気仙沼とある、東北の岩手県地方の方言です。内海季秋先生から、聖書の神聖さを強く教え込まれていたわたしは、このケセン語の方言訳聖書に、はじめは関心をもちませんでした。 
     しかし、二〇一一年、東北大震災の後、『イエスの言葉』ケセン語訳という解説書(文春新書)が出て、地震に伴う大津波でふるさとも流されたが、「われわれの魂までは流されなかった」と本の帯に書かれているのを見て、読んでみようと買い求めました。
     山浦玄嗣(はるつぐ)という、一九四〇生まれの医師で言語学者でもある人が、聖書をギリシア語からケセン語に翻訳して出版したのです。ふざけてした遊びの翻訳ではなく、被災した仲間にイエスさまの言葉を伝えようとする、大きな望みからなされているのでした。感銘を受けました。
  4. きょうの聖書 ルカによる福音書六章二七ー三八節、
     きょうの福音書の箇所は、ルカによる福音書六章、その二七節には、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」とあります。
     山浦医師のケセン語訳では、「敵(かたき)であっても、どこまでも大事(でぁじ)にしつづけろ」とあります。かたき(仇)とは、できるならその存在を無くしたい、殺してやりたいほどの憎い相手であるとし、それを愛せよ、好きになれとは、とてもできない無茶な要求になる。聖書にある愛は、「愛」とするから分からなくなるが、憎い相手あっても、人間として「大事にする」ということだとあります。
     きょうの説教の題は、ケセン語訳聖書の言葉を借りてみました。これは、神の愛と憐れみを受けたわたしたちが、神の愛を反映して、いかに生きるかを示すものだと考えたからです。
     この箇所は、マタイによる福音書五章三八ー四八節にも同じように出てきますが、このイエスさまの教えを、実際に実行しなければならないと、トルストイや代々の殉教者たちが、いのちを削って「敵を愛する」の教えを守り抜こうとする、痛ましい生き方をしてきました。
     山浦先生は、無茶な英雄的行為は退けながらも、あの津波の中、住民の避難誘導に尽くしながら、みずからも波に呑まれて殉職した、何人もの警察官の名を挙げて、「友のためにいのちを捨てる」大きな生き方、死に方をした人々をたたえています。
  5. 敵(かたき)をも大事にする
     きょうの聖書箇所では、まず二七節に「敵を愛せよ」と出して来て、三〇節まで、具体的にひどいことをする人々のことが記されています。悪口を言う人、侮辱する人、殴りかかって来る人、着ているものを奪おうとする人、しかし、抵抗しないで、悪口は言わせておけ、欲しがるものは与えておきなさいとあります。
     敵を愛せよと言われると、それは無理だと思いますが、悪口は言わせておけ、侮辱されても甘んじて受けなさい、わたしの物を欲しがる人には、取り返そうとせずに与えておきなさいということになると、なんだか、自分にもできそうな感じがしてきますね。
     最後にまた触れますが、グループでの攻撃だけでなく、国と国、民族と民族の争いの中で、惨劇にまきこまれたら、どうしたらいいのかと不安ですね。
     イエスさまのころと、その後の初代教会の時代に、イエスさまに従った人々が、どんなにひどい、集団的な暴行を受けたかを思うと、やはり、敵を大事にすることは自分にはできないと言いたくなります。
  6. 自分にしてほしいことを人に
     ここまでは、暴力を使ってでも自分を攻撃する人に対してでありましたが、ここから、自分の方から積極的に働きかける態度が述べられます。三一節から三四節までです。
     まず、「人にしてもらいたいと思うことを、先に、人にしてあげなさい」というのです。それまでの、ユダヤの国の教えは、「人にして欲しくないことは、人にもするな」ということでした。こんどは、「するな」ではなく「先に人につくせ」という行動がすすめられています。
     人間どうし助けあうのは、相互に利益があるからだという、計算に基づいているというのです。わたしたちはお中元、お歳暮と贈りますね。お世話になっている人に、感謝を表わすのです。しかし、きょうの聖書は、感謝のしあいなら、罪人、これは悪いことをしている人のことではなく、神さまを信じていない人のことですが、だれでもすることだ。神さまを持ち出さなくてもいいと言明しているのです。
     しかし、関係のない人、それより、むしろ嫌いな人がいて、そのような嫌(いや)な奴にも恵みをかけなさいと書かれているのです。そんなことできますか。できるはずがない。また、ムチャクチャなことです。ここは、考えると、まったく無関係の人でなく、助けを必要としている人が身近にいれば親切にせよということでしょうか。それとは違いますね。
     みそ、しょうゆの提供はむかしはありましたね。しかし、それは、隣りつき合いの仲であって、見知らぬ他人ではありません。しかし、三二節からは、罪人でも、その仲間うちでは、助け合いはしているよということです。ここで言われる罪人は、イエスさまの時代は、ローマ人に雇われている取税人、税金集めですね。ローマ兵に監視されながら、ユダヤ人から税金を取り立ててまわる。ユダヤ社会では罪人扱い、嫌われて、仲間には入れてもらえない人々でした。
     また、異邦人とあります。ユダヤ人からして外国人です。ユダヤ教に改宗した異邦人もいたようですが、多くは、まことの神を信じない、また、律法を守らない人々ですから、彼らとはつきあうなとされていたのです。
    アメリカには全世界から移民が集まっていますから、たとえば、サンフランシスコなどには、中国人街、韓国人街、日本人の集まる街などありますね。たがいに同じ民族どうし、助け合う、守り合うためでしょうね。しかし、マフィアと呼ばれる暴力団がいて、それは、保護してやるという名目で、同国人からお金をまきあげるのだとも言われています。なかなか人間が守り合うことは難しいですね。
  7. 仲間でも助けてはならないとき
     わたしは、教会の出版の仕事を長くしていましたから、銀行とのおつきあいもよくしてきました。若い人が書店をはじめたりするとき、どうしても資金が必要です。相談に乗ったりしましたが、銀行を大切にして、市中銀行が貸さなくなったら廃業か転業を考えたほうがいいとすすめました。店を構える書店ではなく、自宅に本を置いて、行商のように運んでまわるところから再スタートすればどうかと言ったのです。
     サラ金とも呼んでいましたが、町の高利の金融業者からは絶対借りないように。また、友人、親、兄弟、親族であってもお金の貸し借りは厳禁。巻き込まれた親しい善意の人々の悲劇を多く見て来ましたから。聖書は、よく見抜いています。三四節には、返してもらうつもりでは、貸すなとあるようです。貸すなでは相手が困るから、貸してやっても、はじめから返済を期待しないで貸しておきなさいということでしょうか。
     しかし、まだ、まだ戻してもらわなくてもいいと、人にお金を貸す余裕があればいいですね。この三四節の言葉は、わたしにもできそうな小銭の貸し借りのことでしょうか。この箇所は、零細事業をやってきたわたしには、はっきり理解できないことです。
  8. 「敵を愛せよ」という言葉が、きょうの聖書のはじめ二七節に出てきましたが、三五節にまた出て来るのです。三五節以下は、論旨が変わるのです。はじめは、わたしたち人間が、自分たちをいじめる人々にどう対応するか、敵ではないが、助けを求める人たちにいかに対応するかという、あくまでも、人間の問題でした。
     ここからはこんどは神さまが相手です。ここが大事なのです。人に対して良いことをしてあげれば、自分にも神さまからのお返しがある、報いがあるというのです。人間どうしのことが神さまにはお見とおしです。特に、驚くべきことは、敵を愛したあなたがたは、その報いに、「いと高きかたの子となる」とあります。
    「いと高き方」というのは、旧約聖書の表現で、まことの神のことです。いつわりの神々は、神に対して、物品や金銭の捧げものを要求します。しかし、まことの神は、わたしたちから巻き上げるのではなく、貧しい人々、困窮の中にある人々へのわたしたちの助力をお喜びになるのです。
     特にまことの神は、人の救いのために、ご自身、人の形をとり、人の負うべき罪を一身に負って、十字架の死を遂げられました。イエス・キリストこそが、「いと高きかたの子」、神の子その方です。わたしたちも神の子となる。このキリストと一体となって生きるのがキリスト者です。キリストの示したこの神の愛、神の憐れみを、いくらかでも、わたしたちは、人に対する援助によって現わすことができるでしょうか。
     人に対して大きな善行をしても、人から大きなお返しを受けることはありません。あるのは神さまの報いです。神さまが報いてくださるほどに、神のいつくしみにふさわしく生きることができればいいですね。わたしたちの善行は、神さまの恵みの業を運んで行く仕事です。父なる神の愛の運搬人、光栄ですね。
  9. 現代の困難、国と国が相手の世界で
     わたしたち飯能ルーテル教会では、はじめはミャンマーの政治的混乱のために、現地で苦しんでいる人々のために祈りました。いまは、ミャンマーだけでなく、アフガニスタン、ベルラーシ、そうして、ロシアの侵略の危機にあるウクライナのためにも祈らなくてはならなくなりました。
     世界は、現在、大きく三つの勢力圏に分かれています。イスラム圏、共産圏、そうして、民主主義を標榜する国々です。日本も民主主義の側に立っています。 
     「恩を知らない悪人にも、情け深くあれ」というイエスさまの教えは、この国際関係にどう関わるのでしょうか。神の国の倫理は、国際政治にまで、適用されるのでしょうか。
    実はいま、いちばん心配なニュースは、中近東やアフリカで、三億人を超えるクリスチャンが、イスラム教徒や他の土俗宗教の人々によって虐殺される危険性が強くなってきたということです。悪人に情け深くあれと言われるわたしたちが、いのちの危機に瀕している仲間、クリスチャンたちにどう関わるのができるのでしょうか。難民を受け入れるには、ヨーロッパの国々はすでに限界のようです。
     アフガニスタンに医療奉仕に行っていた故中村哲医師は、医療だけでは足りないと、現地の人たちと共に、井戸を掘り、水路を作って農業を起こそうとしましたが、暗殺されてしまいました。これは、日本から遠い国のことだから、わたしたちは声援し、資金的に応援することですみました。無念なことです。
     いま、日本も巻き込まれる大戦乱の怖れ。各国の外交的交渉に頼るほかありませんが、わたしたちはキリスト者としてどう覚悟すべきでしょうか。まだ、覚悟というのは早いですね。
  10. ヨブ 神と悪魔の闘いの戦場にて
     ロシア、中国、フランス、ドイツ、イギリス、アメリカといった国々の争いは、わたしたちを無力感に陥れます。しかし、マルティン・ルターは、すでに一五二一年に言っています。「神は、アッシリア、バビロン、ペルシア、ギリシア、ローマなど、自分たちでは永遠にその権力、権位に坐し続けると考えていた国々を絶やしてしまわれた」(『マリアの讃歌』)。神を畏れず、自国に威光、領土、資源を得ようとする大国の指導者たちにも通じるでしょう。
    神さまが、人間の世界を注視しておられることを信じなければなりません。旧約聖書に「ヨブ記」がありあます。これは、ヨブが不運や悪と戦い、苦しんだ物語でなく、神とサタンの戦場にヨブがされたということです。それで、ヨブが悲鳴を上げるとサタンが凱歌をあげることになります。
     財産をすべて失い、息子、娘も死なせ、自分のからだも疫病で腐れただれるような状態においても、ヨブは神を呪うことをしませんでした。自分の闘いでなく、神の戦いで神に味方するのです。神に信頼し続けるのです。
     わたしたちも、無力なままに、いまの世界の危機を見守るだけでしょう。しかし、神の支配、神の介入が、国際関係の中にも働くことを信じていきましょう。
  11. さて、山浦医師のケセン訳聖書は、個人的な生き方につきている感じがします。しかし、山浦さんが立っているのは、東日本大地震と大津波の最中です。国際問題以上に、個人には防ぎかねる出来事です。そこで、生きてはいるが死人のような「生き死人」よ、イエスさまがついているではないか。いっしょに立ち上がろう。やるべきことが見えているだろうと、励ます聖書の翻訳でした。
     わたしたちも、ただ元気を出すのではなく、世界のために祈る教会の祈りを、その苦難の中にいる人が神の守りを受け、悪をおこない、弱きものを打つ人々にも神への畏怖があるようにと祈りましょう。