すばらしい交わり

主の変容主日 ルカによる福音書9章28~36節

 牧師になって今年で8年目になりました。みなさんと一緒に神さまとの親しい交わりの時である礼拝に与ってきましたが、さまざまな事情で教会に来ることがかなわないという方もたくさんおられることも知っています。特に今はコロナ禍ですから、教会に行きたくても難しいですという方がいらっしゃることも知っています。
私は牧師としてなかなか教会に来ることができない、特にケガや病気、ご高齢になったために来ることができないという方を訪問していますが、訪問するときに、できるかぎり一緒にしようとすることがあります。それは聖餐式です。一緒にキリストの愛と恵とをいただくのです。
聖餐式は英語でコミュニオン(communion)と言います。直訳すれば、共に一つになるということです。そして、聖餐式のときに牧師はイエスさまが言われた言葉を必ず口にします「これは新しい契約です」と。この「契約」を英語ではコベナント(covenant)いいますが、このコベナントという単語は「一緒になる」という意味を持つと聞いたことがあります。ですから聖餐式は、私たちがキリストと一つになる、キリストと一緒になる、キリストと共に在るというすばらしい愛と恵の交わりのときなのです。
教会に来ることが叶わない方と一緒に聖餐に与ると、みなさん本当におだやかで、やわらかで、あかるい表情をされるのがとても印象的です。キリストと一つとなること、神さまの愛と恵を受け取ることの感動のあまり涙を流される方もいます。
神さまは、私たちの心にキリストの愛の光、希望の光、いのちの光を届けてくださる。そして、キリストと一つとなるということは、どうすることもできない人の苦しみや、悲しみをキリストが共に担ってくださるということ、そしてキリストは共にいて、共に生きて、決して一人ではないんだ、ということに気づかせてくれるのです。
人にはどうすることもできない、悩み、苦しみ、悲しみがあります。だから神さまはイエス・キリストを通して、聖書のみ言葉を通して、このような礼拝を通して、私たちに語りかけ、働きかけ、交わり、関わり、私たちの心にキリストの光、愛と希望の光を届け、励まし、慰め、支えてくださるのです。
今日の聖書箇所で、イエスさまは祈るために山に上られた、とあります。祈りとは、神さまとの交わりの時です。あるユダヤ教のラビ(指導者)がこんなことを言っていたのを本で読みました、「私が祈るのは、神の存在を呼び覚ますことで自分が一人きりではないと感じる助けになるからです」。確かに神さまの存在をそばに感じながら生きることができたなら、それほど心強いことはないですし、心の平安を保つ支えとなる、生きる力となるでしょう。
イエスさまは祈りの時を、神さまとの交わりの時を大切にされていました。ルカ福音書ではイエスさまが洗礼を受けたときも祈っておられる姿が記されていますし(3章21節)、12弟子たちを選ぶ前にも祈っておられました(6章12節)。弟子たちに「主の祈り」を教える前にも祈っていましたし(11章1節)、そして、弟子のユダに裏切られ、人々から捕らえられる前にもゲッセマネで祈られるイエスさまの姿が記してあります(22章41節)。
今日の福音書の箇所でもイエスさまは祈るため、神さまとの交わりの時をもつために山に上られました。旧約の時代から山の上は神さまとの交わりの場であることが記されてあります。
モーセもエリヤも山に上って神さまの言葉を受けたということが旧約聖書には記されてあります。
ですからイエスさまが祈るために山に上られたということは、神さまと強く結ばれ、深く交わり、確かにつながることを求め、神さまと一つになる、一緒になる祈りのときを大切にしておられたということでしょう。
そして、イエスさまが祈っておられると、顔の様子が変わり、服は真っ白に輝くのです。つまり神さまの光輝く栄光があらわされた、神さまがイエスさまを通してご自身を現されたという出来事が起きました。
そうこうしているとモーセとエリヤが現れます。モーセは神さまから選ばれ律法を与えられた人物であり、エリヤは神さまから選ばれ、預言の言葉、神の言葉を与えられた人物です。モーセ、エリヤそしてイエスさまと三人で、イエスさまがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた、と聖書は言います。
イエスさまがエルサレムで成し遂げられる最期のこと、それは十字架と復活の出来事です。
十字架の出来事それは、これが神さまのみ心なのかと思わせる、激しい痛みと、悲しみと、苦しみの出来事でした。
イエスさまがエルサレムで成し遂げた十字架の出来事、それは、だれもが抱えている悩み、苦しみ、悲しみを照らしだし、そして、だれもが抱えている罪という深い暗闇を照らし出します。
私たちの主イエス・キリストは、誰もが抱えている、痛みや、悲しみ、苦しみに寄り添い、神さまの愛の光、希望の光を当てて、励まし、慰め、癒し、支え、生きる勇気と、力と、希望とを与えてくださる。そして誰もが抱える罪という闇に、神さまの愛の光を当てて、人として歩むべき道へと導き、共に生きようと働きかけられるのです。
キリストの十字架は、あの十字の交わりに示されているのは、神さまと私たち人間とが決して断たれることのない、切れることのない、消えることもない交わりの中にあるのだということです。
そして、神さまは、人にはどうすることもできない、すべての交わりが断たれてしまう、暗闇の中の暗闇である死であろうとも、たとえ死であっても、神さまと私たちの交わりは断たれることはないんだということをイエス・キリストの復活の出来事を通してはっきりと示してくださいました。
神さまは、イエス・キリストによって私たちと深く交わり、強く関わり、確かに繋がり、愛の光、希望の光をもって守り、導いてくださるのです。
真っ白に光り輝くイエスさまは、その神の栄光をまとい、頂点に君臨し続けることに固執することなく、神さまのみ心に背きつづけ堕落した世界の現実のただ中に、深い闇を抱える私たち人類のただ中に飛び込んで来られました。
イエスさまは心が闇に覆われてしまいそうな人びとと交わり、関わり、人々の心に神さまの愛の光、希望の光、いのちの光をともし、導こうとされるのです。
私たちは、いつも、いつでも、いつまでも決して一人じゃない。この世界のただ中に、私たちのただ中に、そして死という暗闇のただ中にまでも飛び込まれたキリストが共に生きてくださいます。
ときに現実の深い闇の世界に覆われそうになる、振り回されそうになる、打ちのめされそうになる弱くて、脆い自分がいます。だから、私たちはこれからも神さまとの親しい交わりの時である礼拝に共に与り、キリストと一つになる神さまの愛と恵の聖餐に共に与り、キリストを中心としたやさしさと、あたたかさと、やわらかさの交わりを共に大切にしながら、キリストと共に、キリストの平和の内に生きていきましょう。