思いを重ねて

顕現後第6主日 ルカによる福音書13章31~35

 連日ウクライナで起きているニュースを目にして心が痛みます。悲しくなって涙が出そうになります。とくに小さな子どもたちが傷つき泣き叫んでいる姿を見ると辛くて切なくなります。
 戦争を経験された教会員の方が言っていた言葉を思い出しました、「人間は空から爆弾をふらせ、神は天からキリストを降らせた」と。
神さまは御子イエス・キリストのいのちを与えるほどに愛してやまない、尊くて、かけがえのないいのちの存在が、いのちを奪い合っているこの世界の現状をご覧になり、ご自身の身が引き裂かれるような思いで、嘆き悲しんでおられるでしょう。
今回この世界の悲劇を目の当たりにして思ったことは、多くの人間が一国の一リーダの号令に従いいのちを犠牲にしてまで他者のいのちを虐げ、奪うことをしている。それなら、私たちの信じるこの世界のリーダーである主イエス・キリストの号令に聞き従い、他者のいのちのために、愛する家族や、私たちの未来のために、いのちを捧げる、いのちを犠牲にしたいという思いです。首相でも、主席でも、大統領でもない、主イエス・キリストの思いにしっかりと向き合い、ことばにしっかりと耳を傾け、愛をしっかりと胸に刻んで生きることを絶えず祈り求めていくことをしたい。愛する家族のいのち、大切な友達のいのち、私たちの未来を委ねることができる、託すことができるのは主イエス・キリストだという揺るぎない信仰を持ってキリスト共に、みことばと共に生きていきたいのです。
今日の聖書箇所でイエスさまはエルサレムのことで深く嘆いておられます。エルサレムには神殿があり、ユダヤの政治と宗教の中心地です。「エルサレム」という言葉を日本語に直訳すれば「主の平和」となります。しかしエルサレムは、主の平和とはほど遠い、指導者達の腐敗した姿があり、主の平安どころか、恐怖政治による不安と恐れとが人々の心に蔓延していたのです。イエスさまが特に気にかけ、目をかけ、声をかけ、寄り添い続けた社会的弱者達の苦しみは計り知れないものがあったでしょう。
イエスさまは人々の痛みや悲しみをご自身のことのように受け止めて、懸命に、その文字通りいのちをかけて神さまの思いと、言葉と、愛とを伝え、生きる力と、勇気と、希望とを与えていきました。そして、いつでも神さまを指し示し、神さまへと立ち帰るように、悔い改めるように、向き直るように人々を導き、神さまを信じて、神さまのみ言葉に聞き従い、愛し合い生きることへと招きつづけました。
イエスさまがいつものように福音宣教をしていると、ファリサイ派の人々が何人か近寄ってきていいます「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。
ファリサイ派の人々はユダヤの律法に即した正しい宗教的生活を厳格に守ることをしていた人々です。ですからイエスさまが安息日に病の人を癒やしたり、神さまの福音宣教の働きをすることを厳しく非難、批判しました。また、罪人たちと関わることは不浄で汚れると考えていたファリサイ派の人々は、イエスさまが罪人達と親しく関わることを強く非難し、批判しました。
そんな彼らファリサイ派の人々がどうしてか領主ヘロデのイエスさま殺害計画を知り、イエスさまに殺されるからここから立ち去れと警告したのです。
ここで思うのが、ファリサイ派の人々が警告すべきは、イエスさまではなくヘロデの方だろうと言うことです。
神の律法を守っていることを自負して、律法を守れない、守らない人々を非難し、批判しているなら、「殺してはならない(出エジプト20章13節)」とあの十戒にも記されている律法を守ろうとしないものに対して声を上げること、神さまが与えられた尊いいのちを守ることが律法を遵守するもの達の、そして宗教的指導者達の務め、責務なのではないでしょうか。
否、指導者であるとか、指導者でないとか関係なく、神さまから与えられた尊いいのちを守り、大切にすることはすべてのいのちある者の使命なのだと思います。
結局のところファリサイ派の人々にとって神の律法は自分にとって都合のいい保身のための道具でしかなかった、と言われても仕方がないでしょう。
イエスさまは尊い、かけがえのない、神さまが愛してやまないいのちの存在のために声を上げ、行動を起こし、神さまの限りない無償の愛を人々に示し続け、愛に生きることへと呼びかけ続けました。
聖書は言います「愛には恐れがない(1ヨハネ4章18節)」と。その通りにイエスさまはファリサイ派の警告や、ヘロデの脅しに対して一歩も引くことなく声を上げ続け、福音を宣言し、かけがえのないいのちの存在の救いのために、神さまのみこころと愛をこの地に現わし、導くために前進し続けました。
イエスさまは神さまの思いに、思いを重ねて言われます「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはおまえの子らを何度集めようとしたことか」と。
「エルサレム、エルサレム」と我が子のように呼びかけ、神さまの御心に背き続ける姿を嘆き、それでも見捨てることができない神さまの神心と、深い憐れみと、愛とが示されます。
イエスさまは、神さまの御心を、危険が迫るときに雛鳥たちを本能的に羽の下に集める母親めん鳥の思いにたとえていいました。神さまの私たちに向けられている思いは堅固で、揺るぎないものです。聖書は言います「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない(イザヤ書49章15節)」と。
私たちに向けられている神さまの思いは堅固であり、私たちに向けられている神の愛は絶対、不変、永遠です。
私たちは、私たちのいのちのため、平和のため、救いのために与えられた、みことばと、キリストのいのちと、そこに示された神さまの限りない愛のもとにしっかりととどまり続ける者でありたい。
神さまの愛の羽のもとに、キリストの十字架のもとに離れることなく身を寄せ続け、いつでも神さまを仰ぎ見、神さまのみ言葉に耳を傾け、神さまの愛を胸に抱きつつ生きる者、生かされる者でありたい。
神さまの思いに思いを重ねて、与えられた尊くて、かけがえのない私たちのいのちを共に支え合い、助け合い、二度とない今日という一日を大切にし、キリスト共に、みことばと共に生きる者でありたい。