実らぬイチジクの木を慈しむ園丁

2022年3月20日㈰ 四旬節第三主日
ルカによる福音書13章1~9節


 教会歴では四旬節(受難週)と呼ばれる季節です。主イエスの受難と私たち人間の苦難を考える時です。13章1節に「丁度その時、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことを告げた」。説明が必要と思います。旧約時代のイスラエル(ユダヤ教)では、礼拝で動物を犠牲(献げもの)として神にささげた。日本などでは初穂の作物を献げるとの違い。ガリラヤで礼拝があった所で総督ピラトが人々を殺害した。最も神聖な所であってはならぬ事が起こった。人々は「ピラトがガリラヤ人の血を礼拝の動物の血に混ぜた」と感じて、その惨劇を主イエスに告げた。その時のお言葉です。「そのガリラヤ人たちが、そのような災難に遭ったのは、他のどのガリラヤ人よりも罪深い者だからだと思うのか、決してそうではない、あなた方も悔い改めなければ、同じようにほろびる」。どうでしょうか!思いがけない災難に出会った人に対して、それはその人に原因があったから、罪があったからだと言い、それに反して遭わなかった自分は罪がない正しいと思い込んで安心したがると思われますがどうでしょうか。主イエスは、ガリラヤ人の災難を見聞きした人の心にそういう思いを見抜かれた。「その様な災難に遭ったのはその人々が他の人より罪が深かったと思うのか、決してそうではない」と言われる。更に「シロアムの塔が倒れた時18人の死者が出たが、その災難に遭った人は、他のどの人よりも罪が深かった者とおもうのか、決してそうではない」と繰り返し言われる。聖書の中で、主イエスが特に怒りを抑えがたく発せられるときは、人があまりに高慢になった時と、余りに冷酷無情になった時だと感じています。今日(こんにち)のプーチン大統領に私は見ます。

 2月7日の朝日新聞声欄にあった投稿です。投書した人は兵庫県の吉平牧師、タイトルは「家出少年の私、17歳の彼を思う」、ご存じと思います。「東大の門の前で殺傷事件を起こした少年は、東大医学部を目指していたが、学力が落ちてきて入れないと思った時、人を殺して自殺しようとした。吉平牧師は彼と同年の頃、大学受験に落ちた18歳の春に家出した。親と教師にあまりに従順であった自分に腹が立ち、どう生きていくべきか判らなくなり唯、遠くに行こうとして夜中に三重県の鳥羽にたどり着いた。寒さに野宿をあきらめ、電話ボックスに駆け込んだ。怪しげな行動が目にとまったのか、警察に職務質問され、私は「こづかいはあるが親の金は使いたくない」と答えた。警察は矛盾した話をじっと聞いて「この少年は大丈夫だろう」と近くの宿に届けてくれた。宿のおかみさんは「寒かったろうね」とすぐさま、私を風呂に案内した。冷えきった体を湯が突き刺した。言いなりであった自分が悔しくて号泣した。自分らしく生きていこうと決心した。東大前の路上で3人が刺された事件で、高校2年生の17歳の少年が逮捕された時、そんな自分の過去が思い出された。私は鳥羽で見知らぬ人の親切に出会って、気持ちを切り替えて生活に向かうことが出来た。あの少年は成績が上がらず自信を無くしたと供述したというが、彼が絶望しかかった時心の叫びを聴いてくれる大人の出会いはなかったのか。この先の長い人生を思い、悔しくてならない。私の心には「彼の心の叫びを聴いてくれる大人との出会いはなかったのか」の言葉が深く残りました。

 今日の聖書の後半は、主イエスがたとえ話をもって今日の教えを深めて話されます。説教題を「実らぬいちじくの木を慈しむ園丁」としました。イチジクとぶどうはイスラエルの特産です。「そしてイエスは、次のたとえを話された。或る人がぶどう園にイチジクの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで園丁(園の世話人、管理者)に、もう3年もの間、実を探しに来ているのに見つけたためしがない。だから切り倒せ、なぜ土地をふぁさがせておくのか」。園丁は応えた「ご主人様今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って肥やしをやってみますから」。園の主人は、イチジクの木が実を結ばないことに怒って「ムダだから切り倒せ」といい、園丁は「今年もこのままにしておいてください」と反対する。真っ向からの対立。普通主人の方がつよいはずで園丁は従うしかないはずですが、「もう3年も待った」と怒る主人に園丁は従おうとしない。断固として、もう1年待ってくれと主張を続ける。「もう1年私が周りを掘って肥料をやってみます。そうすれば来年実がなるかもしれません。それでもダメなら切り倒してください」。「来年実がなるかもしれません」とは園丁は気休めを言っているのでしょうか。私はそうとは思いません。園丁は、実を成らすのは私の務め、私の責任、それでもダメなら切り倒してください。それでもダメなら私を切り倒してくださいと私には園丁が行っているように聞こえます。

このたとえ話の登場人物は、イチジクの木と園丁と園の主人です。主人は神、園丁はイエス・キリストと言えます。園の主人と園丁が、神とキリストが実のならないイチジクの木の前で「切るの、切られるの」と激しい論争をしている、神は、私たちが実を結んで生きるように造られたと言われる。私はどの人も人生において実を結んで生きていると思っています。あの人がいて、この人がいて、自分も生きれる。あの人の助けがあって、、この人の協力があって私もなにか出来て、人生に喜びや元気をもらっている。しかし彼は、東大医学部でなかったら実を結べない生きる価値はないと言う。そんな考えだと本当に実を結べないかもしれない。私たちはジグソーパズルのその1枚のように必要とされているのだ。特に称賛されなくたって、実は結べるし喜べるのだ。みんな互いを必要としている。朝日新聞の投書欄の吉平牧師は「あの少年が絶望しかかったとき、心の叫びを聴いてくれる大人の出会いはなかったのか、この先の長い彼の人生を思い、悔しくてならない」という。園丁が「ご主人様今年もこのままに置いてください、木の周りを掘って肥料をやってみます。来年は実がなるかもしれません。それでもダメなら切り倒してください」。園丁は悔しくてならないのです。来年実がなるかもしれませんと言う、しかし本当に来年実がなるのでしょうか。そし翌年に主イエスはユダヤ指導者たち、民衆によってゴルゴダの丘で十字架につけられます。「木の周りを掘って肥料をやる」という主イエスは肥料になられたのでしょうか。「父よ、彼らを赦してください。彼らは自分が何をしているか判らないのです」。ブドウ園の主人と園丁の会話はイチジクの木の前でおこなわれました。主イエスの十字架の死は、まさに実らぬイチジクの木のために切られる園丁のようではありませんか。イチジクの木は何を感じたのでしょうか。そして主の弟子たちは、私たちはどうでしょうか。問われています。

 私が若い日にいた教会で出会った方が、自分にとって信仰とは「帰っていく所がある」ということです、とよく言われた。その方は深く考えるタイプの方でした。家内の友人でもあり、時々様子を聞いていました。ご主人がまだまだお元気な年齢で突然重い病でなくなられ、息子さんを若く元気な年齢で亡くされました。ご自身は頸椎の疾患のために首を保護するカラーを付けながらの生活。そして最近お嬢さんが重い病気の危機を通り抜けたとお聞きしました。この飯能教会の礼拝に千葉県から3時間ほどかかって来られていた時期がありました。こんなに辛い目に遭いながら、聖日礼拝に出席しておられる。この方から聞いた「私にとって信仰があるとは、帰っていく所がある」とは、人には泣きたい時があり、泣く自分を受け入れてくださる方があるということでしょうか。喜びの時感謝する方があるということでしょうか。私も年を重ねるにつれて、帰っていく所があるとは、どんなにか大切なことか感じています。帰るのは、新しく出発できるためです。慈しみをもって迎えて下さる方がおられるとは何と幸いなことか。ところで、主イエスは「あなた方も悔い改めなければ滅びる」と言われました。「悔い改める」とは、間違ったことがあれば、それに気づいて改めるという意味ですが、聖書でいう「悔い改め」の本当の意味は、私ども人間を造られ、愛される神に帰っていくことです。

18歳の家出少年であった吉平牧師は、電話ボックスで寒さに震えていた時、警察官がじっと話を聞いて宿に届け、おかみさんが「さむかったろうね」とすぐに風呂に案内してくれた、冷え切った体を湯が突き刺した。号泣して「自分らしく生きようと決心した」という。吉平牧師はあの東大前の事故を思い、彼が絶望しかかった時、心の叫びを聴いてくれる大人との出会いがなったのか、悔しくてならないと言う。「実のらぬイチジクの木を慈しむ園丁」の心も私たちを見て、悔しかったり、又慈しみの心で安心しておられたりであったでしょうか。主よ、われらを憐み祝してください。アーメン