四旬節第4主日 ルカによる福音書15:11~32
今日の福音書には、ある父と二人の兄弟の物語が書かれています。放蕩の息子のたとえとして知られているこの物語は、通常放蕩息子の悔い改めと父の愛、これを不満に思う兄についての話として知られています。多くの人々は、この話を通して神様の愛の偉大さと許しについて悟ります。同時に長男の怒りと不満に違和感を感じたり、逆に納得したりすることもあります。これだけでなく、この物語の中にはいろいろなことが入っています。その内容を一つ一つ調べながら、今日の福音書の語るところを分かち合おうと思います。この話を分かち合う前に、皆様に心にとめていただきたいことがあります。それは、この話を聞いていた聞き手がファリサイ派の人々と律法学者たちだったということです。今日の福音書が始まるルカによる福音書15章1-2節には、イエス様のところに徴税人と罪人たちが来たということを見て、不満に思うファリサイ派の人々とと律法学者たちの姿が書かれています。彼らはイエス様のことを見て、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い出しています。ここでイエス様は、彼らに様々なお話をなさいますが、その中の一つが今日の放蕩息子のたとえです。この背景を通して、私たちは今日の言葉が誰に向けられたことなのかが分かります。そして、この御言葉を通して、神様が私たちに何を願っておられるのかも分かるのだと思います。
今日の福音書は、次男の愚かな考えと行動から始まります。次男は父親のところに行き,自分が受け取る財産の分け前を要求します。この要求は一般的ではありません。通常、子供が親の財産を受け取るのは、親が死んだ後です。しかし、次男はこのようなことを無視し、父親に自分の分け前を要求します。この要求は、確かに子供の道理から離れたことでした。しかし、父はこの要求を聞きてくれます。その理由については、福音書には書かれていませんが、私の考えでは、次男の要求が続いたからだと思います。それで、父は息子たちに自分の財産を分けてやることにしました。次男だけでなく、長男にも財産を分けました。つまり生前贈与したということです。このすべてのことは、次男のとんでもない要求から始まったことであり、これによって長男も自分の分け前を受けたということです。
そして財産を受けた次男は、遠い国に旅立ち、父の財産を放無駄に使います。ここで私たちが注目すべき文章があります。それは「遠い国に旅立ち」という言葉です。「遠い国」というのは、イスラエルを指していることではないでしょう。イスラエルではない他の国、異邦の国を意味します。皆様もよくご存知のように、当時のユダヤ人たちは、異邦人との接触を避けていました。異邦人と接触すると、汚れると思っていました。それで市場に行って来ただけても、清いの儀式を行いました。ところが、次男は遠い国、異邦の国に旅立ちます。それだけでなく、彼らと交わり、もらった財産を無駄遣いしました。長男の表現を借りると、「あの息子が、娼婦(異邦人)どもと一緒にあなたの身上を食いつぶした(30節)」のです。これは、次男がいくら律法を無視したか、どんなに放蕩な生活をしたかを示していることです。
そして15節を見ると、財産を放蕩無駄遣いした次男は、飢饉が起こると豚を世話したと書かれています。この豚を世話するということも、ユダヤ人の考えでは理解できないことでした。レビ記11章には、イスラエル民族が食べてもいけない動物とそうでない動物について書かれています。そして食べてはいけない動物には、豚が含まれています。レビ記11章7節の言葉です。「イノシシはひづめが分かれ、完全に割れているが、全く反すうしないから、汚れたものである。」だからユダヤ人は、今でも豚肉を食べたり、世話したり、触れたりすることはしません。ところが次男は、父の財産を無駄遣いして、汚れると決められた豚まで世話しています。これはユダヤ人としては最悪なことだったのです。しかし、彼の状況はますます悪くなりました。16節には、「彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった」と書かれています。彼は生きるために豚の世話までしましたが、豚の食べ物さえも得られませんでした。
そうなってようやく、飢え死にそうになってはじめて、次男は父のことを思い出しました。そして、父の雇い人にでもなろうとして、父のところに帰ることにしました。おそらく彼は、帰り道に多くのことを思ったでしょう。父が自分を雇い人として受け入れるのか、自分の犯した罪のために追い出されるのではないか、追い出されたらどこに行けばいいのかなど、多くの心配をしたでしょう。しかし、父は想像もできないほど、大喜び、次男の帰郷を迎えました。20節の言葉です。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」
私は幼い頃、この場面を読んで、次男の身なりが汚れていて、ぼろぼろになっているのに、父親は次男であることに気づき、身なりと関係なく抱いて接吻したのだと思いました。そして、父は息子の外的なことは、まったく気にしないんだなと感じました。しかし、私が父になって息子たちを育てていると、息子の身なりは私にとっては、何の問題にもなりません。外で遊んで土だらけ、鼻水だらけになって来ても息子を見間違いことはなく、ズボンにおしっこをして、うんちをしても、汚れているということで息子を抱かなかったこともありません。これは皆様も同じだと思います。ところでイエス様は、なぜこの場面を詳しく言われ、反転の要素としてお使いになっているのでしょうか。それは、父親が息子の清めの儀式のことを全く気にしなかったというのです。父は息子に,まず清めの儀式によって身を清めなさいと言いませんでした。息子が異邦の所に住み、異邦人の女と遊び、豚を世話したことは、全部律法にそむくことですが、父はまったく気にしませんでした。帰ってきたということだけで、父は息子を抱いて接吻しました。
今日の福音書についてお話する前に、私は皆様に、この物語が誰に向かっている話であり、どのような背景を持っているかを念頭においてくださいと申し上げました。イエス様の周りには、罪人と徴税人たちが集まり、彼らは律法を破った人々でした。ユダヤ人の間で認められなかった人々であり、みんなから最悪と思われている人々でした。そしてこのことを見て、不平を言いだした人々はファリサイ派の人々と律法学者でした。彼らは罪人や徴税人とは違って、他の人に認められた人々でした。彼らは律法と御言葉を徹底的に守り、自分に厳しく適用しました。しかし、他人にも厳しく適用し、守れない人々を批判して指摘しました。これは律法の意図に合わないことでした。律法は共同体と自分のためのものであり、批判のためのものではないからです。それでイエス様は、放蕩息子を迎える父の姿を詳しく語られたのだと思います。神様の許しと愛をおっしゃったのです。
しかし、ファリサイ派の人々と律法学者たちはそうしませんでした。罪人と徴税人を軽蔑し、彼らを愛することよりも律法を守らないことを批判しました。今日の福音書の長男は、当時の彼らの姿を表していると思います。畑から帰ってきた長男は、自分の弟の話を聞きます。そして怒って家に入ろうとしませんでした。父が出て来て、家に入るようになだめましたが、長男は父に怒ります。長男は父にこのように言います。29~30節の言葉です。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緖にあなたの身上を食いつぶして帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」
長男の不満はある程度理解できると思います。自分だけが父親に大切にされなかったと感じたのだと思います。しかし、実はこの不満は、成り立たないことです。なぜなら、弟が父の財産を分けて受けたとき、長男も自分の分け前を受けたからです(12節)。さらに、当時の長男の分け前は、次男の分け前より多かったのです。そして長男は、父と一緒に住み、自分の分け前ではなく父の財産を使いました。31節で、父は長男にこう言います。「子よ、お前はいつもわたしと一緖にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」長男はいつも父親のすべてのことを使っていたので、それが元々父親のものであったことに気づかなかったのです。父は、自分の考えだけをもって、弟のことを受け入れない長男にこう言います。「お前のあの弟は死んでいたの生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか(32節)。」
他人にとっては、弟は罪を犯し、身持ちが悪い人として反発されることもあると思います。しかし、父親にとっては、そのような人も自分の息子であるのです。長男はこれを悟らなければなりませんでした。父親を離れて放蕩に暮らしたとしても、その人が父の息子であり、自分の血縁であることです。イエス様は罪人と徴税人は罪がないと言われませんでした。しかし、彼らと一緒におられたのは、彼らが自分の罪を悟ってイエス様のところに来たからです。神様にとっては、罪を犯した人も、正しく生きる人も、皆ご自分の子です。そしてこれを長男として生きている私たちが悟ることを願っておられると思います。今日の福音書は、次男が帰ってきたことを「楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」という言葉で結末を結びます。神様に創造された私たちは、みんな神様の子であり、同じ兄弟なのです。この言葉が私たちを導いてくださいますように祈ります。アーメン