トコトンまで

復活節第2主日 ヨハネによる福音書20章19~31節

 福音書を読んでいるとイエスさまの傍にいることができた弟子たちのことがうらやましくて仕方がありません。
 弟子達はイエスさまからあふれ出る神さまの圧倒的な愛を目の当たりにし、感動したでしょうし、弟子であることを誇りに思っていたのではないでしょうか。
イエスさまは、律法学者達やファリサイ派といわれる指導者達になんと言われようが、いのちを狙われようが、大切ないのちの存在を守るためなら、救うためなら、ユダヤ人が遵守していた律法を破ることさえ厭うことがなかった。どんなときもイエスさまの愛は揺らぐことも、陰ることも、曇ることもなく、目の前にいる大切ないのちの存在を思いやり、仕え、福音を伝え、神の愛を示し続けました。
弟子たちはイエスさまから直接教えを受け、一緒に食事をし、酒を酌み交わし、たくさんの貴重な経験をしたわけです。その中でも弟子達がイエスさまから足を洗ってもらった体験は身に余るすばらしい経験だったと思います。ヨハネ福音書の記者が言うように弟子達はみんな、イエスさまに「この上なく愛し抜かれた(13章1節)」一人ひとりです。
そしてイエスさまは弟子達を愛と親しみを込めて「友」とさえ読んでいたと聖書は言います(15章15節)。
イエスさまは愛して、愛し抜かれた弟子達に言います「わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である(15章12節)」と。この言葉はキリストのすべての教会とそこに繋がるすべての人々に求められている言葉ですし、もっと積極的に言うなら、神さまにいのち与えられたすべての人々に向けて語られ、互いに愛するように求められている言葉です。
この「互いに愛し合いなさい」という言葉に続いてイエスさまが言われた「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない(15章13節)」という言葉を、ロシアのプーチン大統領が今回ウクライナへの侵略で、兵士達の士気を高めるために引用したというニュースを見て憤りを感じました。イエス・キリストの言葉を、人の命を虐げたり、乏しめたり、奪うような行為を正当化するために利用することは、神の愛を踏みにじり、キリストの顔に泥を塗るような行為だと思います。決してあってはならないことでしょう。イエスさまが「わたしがあなた方を愛したように」と言われた言葉を蔑ろにしてはならない。
イエス・キリストの愛は、トコトンまで人を愛する愛です。トコトン、つまり最後の最後まで、どこまでも人を愛するということです。イエス・キリストはトコトンまでの愛をご自身のいのちのすべてをかけて、十字架と復活の出来事を通してこの世界と、私たちにはっきりと現わしてくださったのです。
イエスさまの傍にいて、イエスさまに愛し抜かれた弟子達こそイエスさまのトコトンまでの愛を体験し、味わい尽くした人々でした。
弟子達は、イエスさまが捕らえられるときに蜘蛛の子を散らすかのように見捨てて逃げてしまいましたし、イエスさまを仲間であることが分かれば何をされるか分からないことからイエスさまの仲間ではないと言い張る弟子もいました。
イエスさまは、愛し抜いた弟子達から見捨てられ、敵対する人々からは罵られ、暴力を受け、十字架刑に処され、殺されるのです。しかし、前もって弟子達に約束していたとおりに十字架の死から三日目に復活された主イエスが弟子達の真ん中に立ち現れたという出来事が今日の聖書箇所です。
弟子達は、ユダヤ人達を恐れて家に閉じこもっていたと聖書は言います。昨日までイエスさまを称賛していた人々が一夜明けると非難する側に変わる人間の残酷さや、社会の不正や不条理に心の底から恐れを感じ、お先真っ暗の絶望が弟子達の心を覆っていたのかもしれません。
そんな弟子達の真ん中に復活された主イエス・キリストは立たれ、彼らにかけた言葉が「あなたがたに平和があるように」でした。弟子達を何一つ責めることも、咎めることも、非難することもなく、何よりも彼らの心にある不安や、恐れを取り除こうとされる主イエスの優しさ、思いやり、愛あふれるみことばが弟子達の心に響くのです。
彼らの救いのためなら、私たちの救いのためなら、私たちに生きる力と、勇気と、希望を与えるためなら、トコトンまでやる、トコトンまで愛するのが私たちの主イエス・キリストです。イエスさまは、そのトコトンまでの愛の印である十字架の傷を弟子達に見せて重ねて言います「あなたがたに平和があるように」と。
さらに弟子達に向けて驚きの言葉を伝えます「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わす」と。父なる神さまと主イエスとの固い結びつきのように、弟子達とも変わることのない確かな結びつきがあるということを示し、彼らにこれからの使命を託したのです。イエスさまを見捨てて逃げた弟子達にとって身に余る言葉であり、この上ない光栄の言葉であり、まさに福音です。
たとえ誰かからどうしようもないやつだ、と言われても、自分で自分のことを情けない者だと思っていたとしても、決して忘れてはならないことは、神さまが私たちを選び、招き、導き、キリストと結び合わされ、今ここに在るのだということ。そしてあのときの弟子達と同じように主イエス・キリストが愛のこもったみことばをもって励まし、慰め、神さまへの信仰と、希望とを取り戻すようにしてくださっているということを。
イエスさまは弟子達に聖霊を与えて、つまり神さまの愛をさらに増し加えて言います「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と。この言葉に込められたイエスさまの思いは何か。それは弟子達が、つまり教会が、浄不浄の判断や、正邪の判断、善悪の判断を下して、人を裁いていくということではなく、トコトンまでのキリストの愛の証言者としてトコトンまであれ、ということでしょう。最後の最後までキリストの愛を伝え、届け、知らせ続ける者であれ、どこまでも、どこまでもキリストの愛の証人であれということでしょう。
イエスさまは、復活を疑い続ける弟子のトマスにもトコトンまでの愛を示されました。疑う者はもう知らない、いらない、関係ない、ではなく。トコトン向き合い、愛のみことばを語り、彼の信仰を強めて再び神さまへの確かな信仰へと奮い立たせ、主イエスの愛をどこまでも伝えていく者として遣わされたのです。
神さまは、身のまわりに起きる予期せぬ出来事を恐れたり、失望したり、自分の身に起きる避けがたい現実に苦しんだりする私たちのことを深く憐れみ、キリストを通して、聖書のみことばを通して、教会を通して私たちを励まし、慰め、生きる力と、勇気と、希望とを与えてくださる。そして、ときに神さまを裏切ってしまうような、疑ってしまうような、かたくなになってしまうような私たちに対して神さまは、トコトンまでの愛をもって向き合い、支え続けてくださる、キリストの十字架のもとへと招き続けてくださるのです。
今私たちはまた、復活の主イエス・キリストから愛のみことばを受け、聖霊を受け、使命を受け、「わたしの主、わたしの神」を信じ、キリストのトコトンまでの愛を、トコトンまで伝え、知らせ、届け、証していく者でありたい、キリストの教会でありたい。
この世界に平和があるように。あなたがたに平和があるように!