主の祈りとは何ですか

聖霊降臨後第7主日 ルカによる福音書11:1~13

 今日の福音書はこのように始まります。1節の言葉です。「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。」すると、イエス様は弟子たちに祈りを教えてくださいます。その祈りは、皆様がよく知っておられる主が教えられた祈り、主の祈りです。私たちは、毎週の礼拝でこの祈りを捧げています。そして、この祈りを暗唱する人も多くいます。私も、主の祈りを暗唱することはできますが、わざと覚えたというよりは、繰り返して読んでいるので、自然に覚えられたのだと思います。それほど、私たちは主の祈りに頻繁に接しているのです。そしてこの祈りは、イエス様が直接教えてくださった祈りなので、すべての祈りの源になっています。それだけでなく、今日の福音書には祈りをどんな姿勢をもってすべきかなども書かれていますので、祈りについて漠然とした思いを持っている人々、祈ることによって困っている人々に良い教えになるのだと思います。今日の福音書を一つ一つ調べながら、祈りについて見てみましょう。2節の言葉です。「そこで、イエスは言われた。『祈るときには、こう言いなさい。父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。』」

「父よ、御名が崇められますように」という言葉は、神様の御名が祈っている自分と、この世の中で崇められることを願うという言葉です。この世から崇められる方が神様にならなければならないのは、ふさわしいことだと思います。しかし、世の中の多くの人々が崇拝しているものは、神様ではないでしょう。お金や名誉や権力など、この世は神様ではなく、他のものを崇めています。そして、私たちにもそれが正しいと考えさせています。それでイエス様は、この世が崇拝しているものは正しくないということを、祈りの冒頭から教えてくださいます。この世のものではなく、神様の御名が皆から崇められるように願うこと、これが私たちクリスチャンが願う一番のものにならなければなりません。そしてルターは、この箇所の「崇められますように」を「聖とされますように」と解釈しました。2017年の新改訳聖書でも「御名が聖なるものとされますように」と書かれています。これは、神様の御名が私たちとこの世の中で、尊いものとして敬われるだけでなく、聖とされるように願っているというのです。私たちにとって、神様の御名はこのような意味を持っているのです。

次の「御国が来ますように」という言葉は、神の国が私たちのところに臨むことを願う祈りです。神の国が自分のところに臨んで、自分が神様の言葉にうまく従うように願うことです。これは聖霊によってのみ可能なことです。自分が自分の意志で神様に従うのではなく、聖霊が自分を導いて神様の言葉に従わせるのです。そして、自分に臨んだ神の国は、自分をその国で永遠に生きさせるのです。自分の意志は砕けるかもしれませんが、自分に臨んだ神の国、聖霊は私たちを導いてくださるからです。

3節の言葉です。「私たちに必要な糧を毎日あたえてください。」今の私たちは、このような祈りがなくても、生きるのに十分な糧を得ています。しかし、私たちが日ごとの糧について祈らなければならないのは、この祈りを通して、私たちの日ごとの糧が神様の贈り物であることが分かるからです。神様は良い天気と豊かな実りでなく、平和な国といろいろな職場を通して、私たちの肉に必要なものを与えてくださっています。このようなことが神様の贈り物であることに気づき、感謝の気持ちを持つこと。これが私たちが毎日の糧について祈る理由です。また、この祈りは、自分と周りの人々だけのための祈りではありません。これは、ひどい環境によって毎日の糧を与えられない人、迫害や戦争、または独裁と悪習によって糧を与えられない人々のための祈りです。私たちが考えているよりも多くの人が今も被害を受け、苦しめられています。私たちは、クリスチャンとして彼らのために祈り、彼らが私たちの祈りと支援から忘れられないように、しなければなりません。自分と周りの人々だけでなく、この世のすべての人々に日ごとの糧が与えられるように祈ることは、私たちクリスチャンが毎日しなければならない祈りなのです。

4節の言葉に進んでみましょう。「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」という言葉は、私たちが行う善の対価を求めることではありません。私たちは、たとえ神様の言葉に従い、恵みの下に生きていても、罪を避けることはできません。競争と対立の社会の中で、私たちはやむを得ずに罪を犯すしかありません。 そして、このような私たちに悪魔は「お前の信仰と祈りはすべて虚しいものだ」と突くのです。このような状況の中で「赦し」を祈るということは、神様の赦しを期待して信じているということです。自分の赦しが神様の許しをもたらすというのではなく、神様の赦しを信じるので、自分も負い目のある人を赦すというのです。ルカによる福音書6章36節には、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とイエス様は教えておられます。その次の節である37節には「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」と言われます。私たちを喜んで許された憐れみ深い神は、私たちが赦す人になるようにと願っておられます。赦しを通して私たちが神様のように憐れみ深い人になることを願われるのです。ルターは、もし私たちに赦すことができない人がいれば、赦せる恵みを切に求めなければならないと言いました。その人が滅びるからといって、自分の人生に役立ったり、今より良い生活を過ごすことができたり、することはないからです。憎しみは憎しみのままに残りますが、赦しは愛をもたらします。そしてこの愛は、悪魔の誘惑に勝ち、すべてのことを完成させるのです。ですから、イエス様は私たちが赦すように、愛を行うように、祈りを通して教えておられるのです。

次の箇所である「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」という祈りは、神様から来る力と能力を求めるということです。生きていくと、今日は大丈夫ですが、明日はつまずくことがあります。今日は良い心をもって、神様の御前に堂々と立つことができるかもしれませんが、明日は私たちがどんな姿になるのかが分かりません。それで私たちは、私たちが誘惑に遭わないように、罪を犯さないように、神の力を求めなければならないのです。それにもかかわらず、私たちは誘惑に遭わせられることも、罪を犯すこともあります。その時、私たちがささげるこの主の祈りは、私たちにとって大きな力になってくれるでしょう。「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」という私たちの祈りは、私たちを罪のどん底から救い出してくれるのです。悪魔のすべての誘惑から、誘惑による試練から、私たちを救ってくれます。そのため、イエス様は弟子たちに主の祈りを教えられました。弟子たちがこの祈りを通して神様に従うことができるように、この世で信仰の人として生きるように、主の祈りを教えてくださったのです。

そして主の祈りだけでなく、私たちのすべての祈りは、神様が聞いておられます。神様は、私たちの祈りに答えると約束されました。今日の福音書5~13節の言葉がこの応答に対するイエス様の言葉です。イエス様は、私たちの祈りが答えられることをいくつかのたとえを通して言われます。「しつように頼めば(8節)」と言われ、「求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる(10節)」と言われます。また、父と子の関係に例えられ、「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている(13節)」という言葉で、神様が答えられることをおっしゃいます。これは祈りが虚しいものではないことを、ただ消えてしまうものではないことを、教えてくださるのです。私たちの祈りによって、神様の御名がこの世で聖とされることになり、神の国が私たちのところに臨まれるのです。私たちの祈りは、私たちの日ごとの糧について感謝を悟らせ、世の中の皆に毎日の糧を与えるようにさせるのです。私たちの祈りによる赦しが愛をもたらし、私たちを救い、私たちを誘惑に遭わせないようにしてくれるのです。

いつも私たちは、祈りを「アーメン」という言葉で終えていますが、ルターは、このアーメンを「主は必ず私たちの祈りを聞いてくださる。私たちはこれを信じる」という意味だと言いました。私たちの祈りは、ただ消えてしまうのではありません。神様は、私たちの祈りに耳を傾け、答えられると約束されました。そして、私だけではなく、信仰の深い人たちが共に祈っています。神様はこのような祈りを決して無視されません。私たちは、私たちの祈りについての応答を受け、私たちの祈りによって、新しい変化は起きるのです。主が弟子たちに教えてくださった祈りは、このすべてのことの源になる祈りです。なので、主の祈りを通して祈り、黙想される皆様になりますように願います。そして、皆様の祈りによって、神の国が私たちの教会に臨みますように。祈りを通して感謝を悟られ、赦される皆様になりますように、主の御名によって祈ります。アーメン