だれも知らないその日

待降節第1主日 マタイによる福音書24:36~44

 ある月曜日、池上教会で起こったことです。皆様もご存じのように、月曜日は牧師たちの休みです。それで私も、月曜日は、身なりを整えたり、身の回りをきれいにしたりはせず、ティーシャツと半ズボンの格好で家にいます。その日もそんな姿の月曜日でした。すると、11時頃ドアーベルが鳴りました。モニターで確認してみると、牧師館のベルではなく、教会のベルでした。そして、教会の玄関前には、きちんとした身なりの二人が立っていました。どなたですかと聞いてみたら、自分たちはある教会の司祭と答え、先月池上教会に転入しただれだれさんが通っていた教会の司祭ですと言ってくれました。自分の教会に通っていた信者がどんな教会に籍を移したのかが気になり、池上教会を訪れたのです。その日は、月曜日であったため、私は月曜日の格好、自然のままの姿をしていました。なのに、先月転入した方の前の教会の教職者二人が私と出会うために訪ねてきたのです。本当にひどかったのです。まず、ドアを開けて集会室に案内をしてから、すぐに身なりを整えました。その後で、あれこれ話し合ったのですが、どんな話をしたかもよく覚えていません。ただ話が早く終わり、目の前の司祭たちが帰ったらと願っていたと思います。後悔先に立たず、二度と思い出したくない出来事でした。

今日の福音書は「その日」、つまり終末について語っています。そしてこの終末の日は、誰も知らないと語っています。私が司祭たちの訪問を全く予想していなかったように、その日も何の気配もなく私たちのところに来るでしょう。本当に嬉しくはない「その日」ですよね。私たちに少しでも準備できる時間があれば良いのに、イエス様は「その日」を私たちに教えてくださいませんでした。しかもご自分も知らないと言われます。36節の言葉です。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」

このイエス様の言葉は、多くの議論の的になってきました。終末の日を知らないというのは、神としての資格に満たないので、過去の一部の教会では、イエス様を父より劣った神だと思いました。又は、イエス様が終末の日を知らないというのは、イエス様がご自分を低くして人間としてこの世に来られたので、人間であるイエス様は、その日を知らないと理解したこともあります。これ以外にも多くの意見がありますが、私は、これらのことが今日の福音書を理解するには役に立たないと思います。今日の福音書が語っているのは、イエス様の神としての資格についてのことではないからです。今日の福音書は、終末について語っており、この終末は、大きく二つに分けられます。一つは、すべての終わりであるこの世の終末であり、もう一つは、私たち一人一人の終わりである個人の終末です。そして、この終末の時は、だれも知らないというのがイエス様の言葉です。

私は個人的にこの世の終末と私たち一人一人の終末が同じだと思います。もちろん、全体的に、客観的に見ると、世の終わりと個人の終わりは違います。今でもこの世では多くの人々が死んで、生まれ、生きているからです。しかし、主観的に見ると、同じです。世の終わりが来ても、個人の終わりが来ても、自分が経験することは同じだからです。ですから、私は今日の福音書を「世の終末」という観点から見るだけではなく、「個人の終末」という観点から見ることも必要だと思います。終末はどなたにも来るものであり、「世の終末」という言葉には違和感があることもあるからです。イエス様はこの終末を語られるために「ノアの時」を例に挙げられます。38~39節の御言葉です。「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」

旧約聖書によると、人類は一度終末を迎えました。神様は人間の罪を洪水で裁かれ、これによって人類は、ノアから再び始まりました。この物語は、かねてより多くの人々に警戒心を呼び起こしてきました。だから大きな災害が起きたり、特に洪水による被害を受けたりすると、この「ノアの洪水」を思い出す人も少なくはないと思います。しかし、ノアの洪水が私たちに与えるメッセージは、「裁き」や「終末」だけではありません。これよりも重要なメッセージがあります。それは「罪」ということです。洪水の物語は、「罪」というものがどれほど悪いのか、神様が「罪」をどれほど厳しく扱うかを教えてくれる話です。しかし、洪水の影響が強すぎるためか、人々は「罪」よりは裁きと終末に惑わされるようです。

今日の福音書も同じだと思います。イエス様は、終末や終末に起こることを言われるのではありません。イエス様が洪水の物語を言われたのは、いつ来るのか知らない終末に準備しなさいということです。この終末は、この世の終末になることも、個人の終末になることもあります。どの終末が先に私たちに迫って来るか分かりませんが、私たちは、いつも終末に準備していなければなりません。神様の子として、イエス様の弟子として過ごし、罪の誘惑に負けてはいけません。神を愛し、隣人を自分のように愛さなければなりません。差別と偽りと憎しみは捨て、みんなに愛をもって対するべきです。このようなことに最善を尽くすこと、これが来たるべき終末に準備することです。終末という言葉に心を奪われないようにしてください。イエス様は私たちに終末を言われたのは、恐れを与えるためではありません。終末に備え、目を覚ませるためにノアの洪水を語られたのです。私たちが警戒しなければならないのは「罪」であり、「終末」ではありません。そして、罪を警戒する者は、終末の日に救われるのです。

創世記11章には、バベルの塔の物語が書かれています。この塔の物語は、人々の言葉が混乱し、人々が全地に散らされたことを語っています。この事件によって、世の中には多くの言葉が生まれ、おかげ様で私も日本語を一生懸命勉強しなければなりませんでした。ところが、このようなことが起こったのはなぜでしょうか。何のために人々の言葉が混乱し、人々は散らされたのでしょうか。その理由について,聖書は詳しく述べていません。創世記11章4節を見ると、人々は「天まで届く塔のある町を建て、有名になり、全地に散らされることのないようにしよう」と言います。しかし神様は、これを見られ、彼らの言葉を混乱させ、全地に散らされます。バベルの塔の話は、これがすべてです。何によって言葉が混乱したかは、明確に書かれていません。だから多くの人々は、自分たちの想像力を使って、このバベルの塔の物語を作りました。ある人は、この物語は人間の高慢を象徴するものだと言いました。ある人は、このバベルの塔は混沌についての話だと言い、またある人は、このバベルの塔が異邦の神に仕える神殿だと言いました。

こんなに多くの話がありますが、私はこの話がノアの洪水の後に出てくる話だということに気がつきました。彼らが建てた塔はとても頑丈でした。創世記11章3節には、「石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた」と書かれています。彼らがこんなに頑丈な塔を高く建てた理由は、何でしょうか。私は、それは洪水に備えるためであるかもしれないと思いました。再び来るかもしれない裁きを防ぐために、終末を避けるために、彼らが選択したものは、丈夫な塔でした。神が彼らに願われたのは、彼らがノアの時代に戻らないことでした。罪と悪を遠ざけ、神様の導きに従って生きることでした。しかし、彼らは丈夫で高い塔を建てました。これは神様に従わないということ、神様に対抗するという標識だったと思います。それで神様は、このような心を持っている人々の言葉を混乱させることによって、塔を建てることができないようになさいます。終末に備える彼らの姿勢が正しくなかったからだと思います。終末の準備は、丈夫な塔を高く建てることでも、神様に対する挑戦でもありません。目を覚ましていること、だれも知らないその日のために、信仰の準備をすることが終末についての正しい姿勢だと思います。

イエス様の時代はもちろん、初代教会の時代とルターの時代でも、終末はすぐ来ると思われていました。ルターも主の再臨を待ち望み、トルコ軍がローマを侵略すれば世の終わりが来ると思ったそうです。そして私たちも、世の中のことを見たり、聞いたりすると、終末がすぐ来るかもしれないと思います。戦争と迫害、差別と嫌悪が満ちているこの世を見れば、明日終末が来てもおかしくはないと思います。しかし、明日、来週、来月、来年、私たちに何が起こるの、確かにわかる人は誰もいません。イエス様もその日、その時はだれも知らないとおっしゃいました。主を待つ待降節が始まる今日、イエス様は私たちに「目を覚ましていなさい」と言われます。そしてその日のために準備をしていなさいと言われます。だれも知らないその日を待ち望んで、準備するというのは簡単なことではありません。しかし、私たちがその日のために目を覚まして準備するのは、イエス様がその日が来ることをおっしゃったからです。その日のために準備する皆様になりますように。思いがけない時に来られる主を上手く迎える皆様になりますように、主の御名によって祈ります。アーメン