待降節第4主日 マタイによる福音書1章18~25節
みなさんほとんどの人が携帯電話をもっていると思います。時々、電波状況がいまいちで、よくなくて繋がらないとか、通話が途切れてしまって「イラッ」とするなんてことないですか。インターネットの接続もうまくいかないとか、電波が不安定で速度が遅いとかで、困ったことないですか。携帯電話なのに、電話も、インターネットも繋がらないならもう使い物にならない、いらない、役に立たない、必要ないと思ってしまうでしょう。
この世界と、私たちをお造りになった神さまは、私たちとの繋がり、交わり、関わりを大切にしたい神さまです。私たち人間が神さまの存在を無視し、否定し、知らない、いらない、関係ないと背を向けても、神さまはこの世界と私たちを、使い物にならない、いらない、必要ないといって捨てることも、見限ることも、見放すこともしない。神さまは私たちとどうにかして繋がろう、繋がっていこうとして呼びかけ、語りかけ、働きかけ続けてくださっています。
神さまの方から私たちに近づき、関わり、交わろうとアプローチしてきてくださるのです。なぜなら、神さまはあなたのことが貴くて、愛おしくて、大切で仕方がないから。そんな神さまの私たちへ向けられている熱い思いと、尽きることのない無償の愛は、御子イエス・キリストが与えられたことを通してはっきりと現わされました。
マリアは聖霊によって、つまり神さまの御心、神さまの思い、神さまの愛によってイエスさまを身ごもります。聖書は一貫して、神があらゆるいのちの創造主であること、そしていのちの事柄はすべて神さまの御手の内にあることを示します。
創世記で、人は神さまの息、つまり神さまの霊を受けて生きるものとなったとありますし、年老いたアブラハムと妻のサラが身ごもるときも、イサクの妻リベカが身ごもるときも、ヤコブとラケルのときも、神さまがいのちを与えてくださったのだ、ということが記されてあります。
もちろん、私たち一人一人のいのちも神さまが与えてくださったいのちです。私たちのいのちは、何かの偶然によってここに在るいのちではなく、神さまの思いと、愛の業によって与えられた、唯一無二の、かけがえのない、奇跡のいのちです。
マリアは、神さまによっていのちを宿し、神さまの計画通りに男の子を産み、イエス・キリストが誕生します。イエス・キリストは私たちと同じように、食べもし、飲みもし、排泄もし、泣き笑い、苦しみ悲しみ、喜び楽しみを体験する人間としてこの世に来られたのです。なぜなら神さまは私たち人間と真に打ち解け合うこと、どこまでも連帯すること、いつまでも共に生きることを強く望んでおられるからです
私たちも大切な人の幸せや成長を心の底から願うとき、相手の思いや、相手の視点や、相手の立場に合わせることも、寄り添うことも積極的にするでしょう。心から打ち解け合いたいと思う人がいたら、相手と同じようにしてみよう、同じものを食べてみたり、同じ音楽を聴いてみたりすることも積極的に取り入れるのではないでしょうか。大切な人とは共に生きていきたいと思うのではないでしょうか。
こんな話を聞きました。ある中学二年生のクラスの話しです。二学期がはじまると一人の男子生徒が不登校になったそうです。学校に来る気配がまったくないので先生もクラスのみんなも心配しました。そして、ホームルームの時に話し合うときがあったそうです。そのとき、クラスのムードメーカーの男子三人組が先生にこう提案したそうです「僕たちが明日の朝、○○君の家に行って「一緒に学校に行こう!」っていってみます」と。男子三人組の提案はクラスのみんなと先生に受けいれられました。次の日の朝、男子三人組は○○君の家に意気揚々と向かいました。もう少しで○○君の家、というところで、○○君が家から出てきてどこかへ行こうとしていました。男子三人組はそれを見つけて「○○君どこに行くの?」と聞くと○○君は「これから釣りに行く」と答えたそうです。それを聞いた三人組は、「一緒に学校に行こうよ」と説得を試みました。そして、みんなで行くことに決めたそうです。釣りに。
先生もクラスのみんなも心配しました。午後になって男子三人組は学校に来たそうです。もちろん、先生にこっぴどく叱られたそうです。しかし、驚くことに次の日から○○君は学校に来るようになったそうです。○○君はこういったそうです「僕のことを心から心配してくれる仲間がいる。僕のことを思ってトコトンまで付き合ってくれる、一緒にいてくれる仲間がいることを知ることができました。ありがとう」と。
私たちの主イエス・キリストは、私たちのことに心砕き、心配り、私たちの罪のゆるしと、救いのためなら十字架を背負うことも、いのちを差し出すことも厭わず、トコトンまで愛し抜き、いつまでも共にいてくださるインマヌエル(神は我々と共におられる)です。
イエス・キリストが私たちと同じ人となり、小さなもの、弱いもの、貧しいものとなられたのは、どこまでも私たちと繋がり、連帯し、共に生きることの神の真の愛の証。いつも、いつでも、どこまでも共にいて、私たちを支えたい、励ましたい、祝福したい神の思いと愛の証、それがイエス・キリストです。
イエスさまは言いました「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(マタイ28:20)」と。こうしてこの礼拝で繋がっている私たちにイエスさまは伝えたい、「あなたは決してひとりじゃないよ。安心して。大丈夫。共に生きていこう」と。
私たちがいつもそばに置いている携帯電話も必ず充電しなければならないわけです。私たちも、私たちのいのちのルーツ、いのちの根源、根拠である神さまと繋がり、神さまから生きる力、勇気、希望、平安、愛をいただき続けながら、穏やかな気持ち、あたたかでやわらかな心持ちで生きていくものでありたいです。そして、神さまが結び合わせてくださった家族や、友人や、恋人との繋がりを、主にある家族との繋がりを大切にしていきたいと思うのです。
御子イエス・キリストの降誕を喜び祝うクリスマスまでもう少しです。私たちは、神さまが与えてくださったかけがえのない、尊い、いのちを支え合いながら、いたわり合いながら、神さまが与えてくださった信仰、希望、愛を胸に、主と共に、みことばと共に生きていきましょう。