四旬節第5主日 ヨハネによる福音書11:45~57
私ほとんどの本の序論には、その本の意図と方向が書かれています。それで、本の序論をよく読めば、ある程度は本の内容を推測することはできると思います。今日の福音書も序論の言葉が福音書全体の流れによく現れています。今日の福音書であるヨハネによる福音書の序論は、光と暗闇についての話として書かれています。ヨハネによる福音書1章5節の言葉です。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」光であるイエス様がこの世に来られますが、暗闇であるこの世は、光を理解しなかったという言葉です。このような言葉は、ヨハネによる福音書全体に流れており、今日の福音書だけでなく、先週の福音書にもよく現れています。先週の福音書には、生まれつき目の見えない人を癒されたイエス様の話が書いてあります。この言葉は、単に盲人の癒しの奇跡だけを語っているのではありません。福音書の著者は、盲人、つまり暗闇の中で生きている人々に、光として来られたイエス様を紹介しているのです。癒された盲人は、以前とは違う人生、つまり真理によって目を覚ました人生を生きることになります。しかし、みんなが盲目のようではありませんでした。イエス様のことを受け入れなかった人々、ファリサイ派の人のような人々もいました。福音書の著者は、このような彼らに「誰が盲目なのか、誰が暗闇の中にいる人なのか」という話題も投げているのです。
そして、今日の福音書を通しては、別の暗闇のことを私たちに語っています。皆が迎えなければならない暗闇、死についてのことです。イエス様は、今日の福音書に登場するラザロを通して、死という暗闇と復活という光について言われます。これもヨハネによる福音書の流れである暗闇の中に来られた光の話です。しかし、変わらず光を受け入れない人々はいて、彼らは復活を伝えるイエス様を殺そうとします。ラザロの死と復活、イエス様を殺そうとしている人々をめぐった光と暗闇の話。これが今日の福音書の言葉です。今日の福音書は、ヨハネによる福音書11章全体ですが、長すぎるので、おおよそのプロットと45節から57節までの言葉を持って説教しようと思います。
イエス様はラザロが病気になったというニュースを聞きました。そして、この病気はあまりにも重くて、ラザロの姉妹がイエス様のもとに人を送りましたが、イエス様は二日間も同じ所に滞在されます。ラザロのニュースを聞いてから2日の後、イエス様は弟子たちにラザロがいるべタニアに行こうと言われます。すると、弟子たちはこう答えます。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか(8節)。」弟子のこの言葉は、当時のイエス様の状況を示しています。イエス様は、エルサレムで人々に害を受けるところだったので、エルサレムから離れていました。ところが、ラザロのいるべタニアは、エルサレムの隣の町でした。べタニアもイエス様にとっては、安全な場所ではありませんでした。しかしイエス様は、弟子たちにべタニアに行こうと言われます。これは病気になったラザロが死んだからであり、ラザロと弟子たちに向けた神様の計画があったからでした。
ラザロの家に着いたイエス様は、ラザロの姉妹であるマルタとマリアから恨みの言葉を聞きます。マルタとマリアはイエス様にこう言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに(21,32節)。」しかし、これらのことは、すべて神様の摂理の中で立てられたことでした。イエス様がラザロのことを聞かれたのに、すぐ行かなかったのも、安全ではないべタニアに行かれたのも、すべてが神様の計画でした。そして、神様の計画に従って、イエス様はラザロの死、すなわち暗闇の前に立たれ、涙を流されました。今日の福音書34-35節の言葉です。「『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、ご覧ください』と言った。イエスは涙を流された。」
イエス様が涙を流されたのは、人々がラザロの死によって泣いているのを見られたからです。死の前で涙を流すしかない人々の姿を見られて、憤りを覚え、涙を流されたのです。しかし、このようなイエス様の姿を見た人々の中には、イエス様のことを嘲る人もいました。彼はこのように言います。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか(37節)。」当時のこの言葉は、確かにイエス様のことを嘲る言葉だったと思います。しかし、この言葉は、私たちクリスチャンに真の光の役割が何なのかを考えさせます。盲人の目を開けること、暗闇の世界を照らすことも光の役割でしょう。ところで、光の役割は奇跡を起こし、真理を知らせるだけで終わるものでしょうか。もちろん、このようなことも素晴らしいことです。奇跡と真理が決して簡単に行われるのではないからです。それにもかかわらず、私は、私たちに与えられた光、キリストの役割は、奇跡と真理で終わってはならないと思います。なぜなら、私たちには誰も越えることができない大きな暗闇、死というものがあるからです。私たちには、真理を教えるだけではなく、死から復活に導く光が必要です。私たちの暗闇を無くし、死の陰まで照らす光。この光の力と能力が必要です。そして今日の福音書はこの光、復活の光について語っています。イエス様のことを嘲った人の言葉のように、私たちに与えられた光は、盲目の目を開けたことで終わりません。この光は、私たちの目を開けるだけでなく、私たちを死という暗闇から救われるのです。今日の福音書43-44節の言葉です。「『ラザロ,出て来なさい』と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた。」
イエス様は、ラザロのことを通して、ご自分が光として何をなさるかを人々に示されました。そして、このことを目撃した多くの人々は、イエス様を信じました。光が暗闇の中で生きている人々を照らしたのです。しかし、みんながこの光を歓迎したわけではありませんでした。この光を理解しなかった人々にとって、この復活事件は、とても困難なことでした。それで彼らは、会議を催しました。光として来られたイエス様を暗闇の勢力と定め、自分たちの勢力を守ろうとしました。自分たちの欲と勢力のために、自分たちの肉的な平安のために、光を認めなかったのです。このようなことは、今、私たちの世界でも起こっていることだと思います。自分の欲のために、自分の平安のために不義を保って守ることは、私たちのところにも起こっていることです。平和について語っていますが、武器を買い取っており、民主主義を語っていますが、政府をもっと大切に思っています。自分のことには敏感ですが、他人の仕事には鈍感で、何が正しいのかは分かっていますが、自分の平和のためには口を閉じています。まるでイエス様を理解しなかった暗闇のように、私たちも同じく生きているのです。
今日の福音書48節には、こう書かれています。「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ロ―マ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」皆様、この言葉はどんな意味ですか。人々がイエス様に従うこととローマ人の侵略は、どんな関係があるのですか。イエス様は政治とは関係がなく、反乱を起こすつもりもなかったのに、ユダヤ人の議員たちは、イエス様が反乱のために人々を扇動しているという風に言っています。イエス様を政治的な人に追いやって害を受けさせようとした意図であり、これは大祭司長であったカイアファの口を通して確定されます。49~50節の言葉です。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
暗闇というものはこんなものです。自分のものを守るために、自分の意志のためには自分の妄想までも真実だと信じます。それで、結局自分自身も欺いてしまうのです。これは必ず裁きを受けなければならないことであり、許されないことです。しかし神様は、これまでも愛されました。自分のために自分を欺く人々、暗闇にいることを望んでいる人々のために、この世に光を送られました。そして大祭司のカイアファの話のように、一人、イエス様を皆に代わって死なせ、これによって私たち人間が滅びないようになさいました。死んだラザロを何の条件もなく復活させたように、私たちも何の条件もなく死から救ってくださったのです。これがイエス様が光としてこの世に来られた理由です。
しかし、今日の福音書53節には「その日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」と書いてあります。暗闇も簡単には退けないということでしょう。おそらく、このような光と暗闇の戦いは、私たちの最後まで続くのです。この戦いの中で、私たちは暗闇に誘惑される時も、光に導かれる時もあるでしょう。しかし確かなことは、この光が最後まで私たちを愛してくださるということです。それで、私たちは暗闇の中でも大胆になることができ、誘惑に陥っても再び光の前に戻ることができるのです。死の恐怖までも勝たせるこの光の力が皆様と共にありますように。主の愛によって、私たちのすべての暗闇が消え去りますように、主の御名によって祈ります。アーメン